2010年12月

子ども手当

2010年12月12日

 昨日(12月11日)11時AMよりANAクラウンホテル広島で衆議院議員「岸田文雄」を激励する会が開催されました。 

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 来賓に「石原伸晃」自由民主党幹事長が出席され挨拶をされました。印象に残ったのは子ども手当で、民主党は「社会で子供を育てる」と言っているが過去の歴史の中でこの政策を行ったのは、ルーマニアの悪名高き独裁者、チャウシェスクだと言っておられました。

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 私も子ども手当という名で現金を国民に配るのはよくないと思っています。現金をばらまく政策は、国民を堕落させると思っています。それよりも家庭を守れる政策を行うべきだと思っています。親が子供を育てることは動物の本能です。これを捨てたならば家庭は崩壊します。社会の一番基礎となる家庭という組織を守る政策を行って欲しいものです。

 高等学校授業料無償化も愚策だと思います。高等学校は義務教育ではありません。勉強をしたくない子供も沢山見てきました。全員高等学校は入ったならば、高校教育のレベルは下がるばかりです。それよりも、勉強したくても貧乏で勉強できない向学心に燃えている子供に、高等学校・大学へ行けるよう返済しなくてよい「奨学金制度」を作るべきだと思います。

 大変興味ある記事を見つけました。 『日本のグランドデザイン』(三橋貴明著 講談社)という本の一説です。参考に添付しておきます。

 ロシア革命で政権を握ったレーニンは、ソ連において様々な「伝統を壊す社会実験」を行った。そのひとつが、女性を家事や育児から「解放」し、子供を「国家」が育てるという「家族解体政策」だったわけだ。
 子供とは、通常(というより人類の伝統上)親が育てるものだ。子供の養育費を出すのも、もちろん親である。ところが、ソ連式社会実験では「子供の養育費を出すのは、国家(すなわちソ連式『子ども手当』)」という発想に基づいた施策が実施された。

 子供を育てるのに、親がお金を出す必要がなくなり、食事なども共同の食堂でとるようになった。われわれが日常と感じる「母親が子供の食事の支度をする」光景が、ソ連の国中から消え失せてしまったのである。

 一連の政策により、当時のソ連では親子関係が見事なまでに崩壊した。子供のほうが、自分を育てるのに「お金を出していない」「食事も作らない」両親を、まったく尊敬しなくなり、同時に感謝もしなくなってしまったのである。家族の基本である親子関係が崩れ去った結果、「家族の絆」までもが解きほぐされてしまった。

 レーニンの「実験」は、家族の絆という伝統を破壊し、親子の関係を希薄化させることを目的とした、まさしく家族解体政策だったわけだ。その結果は、無残なものに終わった。親の愛情を知らないまま育った男の子が愚連隊化し、毎晩、国中で大勢の少女が輪姦される、地獄のような光景が出現したのである。

 さらに、離婚が奨励され、夫婦関係も非常に淡白なものとなり、少子化が一気に進行した。子供たちが不良少年化しようが、少女が何人レイプされようが、ソ連共産党は気にも留めないだろう。だが、この「少子化」には、たいへん困ってしまった。
 何しろ、共産党は「自分たちを護る」ための軍隊を持つ習慣がある。中国人民解放軍は、中国共産党を護るために存在しているのであって、中国人民のための軍隊ではないのだ。少子化が進行すると、この「共産党を護るための軍隊」の兵士が足りなくなってしまうわけだ。

「自分たちを護る兵士」が減少することを恐れ、レーニンの死後に権力を握ったスターリンは、この「家族解体政策」に代表される社会実験を、全否定せざるを得ない羽目に陥った。1936年に制定されたスターリン憲法では、今度は伝統や家族の絆こそが国力の源泉であると謳われた。プラウダ(ソ連共産党の機関紙)も、いきなり離婚を批判し始め(それまでは離婚を賛美していた)、夫婦や家族の価値を絶賛し始めたのである。

 最近、日本国内で家族の絆を解体しようとする動きがあるが、これは1920年代のソ連の「実験」の影響を、強く受けていると思われる。一度、ソ連で大失敗した政策を、今度は日本国内で推進しようとしているわけだ。時代錯誤的である以前に、正気とは思えない。

( 『日本のグランドデザイン』(三橋貴明著 講談社) 民主党は 子どもは国家・社会が面倒をみるというが。 参照)

 

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傾き者(かぶきもの)

2010年12月10日

 近頃、歌舞伎の「市川海老蔵」さんのニュースがテレビの集中していますが、歌舞伎は元々「傾き(かぶき)」という言葉が語源ではないかと言われています。傾きとは、変り者とか世の中をまっすぐ見て生きていない人とか言われています。【傾き者は傾き通せ】と傾き者の一人者「前田慶次郎」が言っています。やったことは、大変非常識な行動を取りましたがあまり騒ぐことは無いと思います。

語源
 歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。

 そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」で、慶長年間(1596年 - 1615年)に京・江戸で一世を風靡したのが出雲阿国である。その後阿国を模倣したさまざまな踊りが世に出たが、その多くが「かぶき踊り」の範疇で受け取られた。これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。

 この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。寛永年間(1624年 - 1643年)に遊女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。
                         (ウディペキア参照)

花の慶次で人気者になった前田慶次
 花の慶次とは、人気漫画『北斗の拳』の作者・原哲夫が書き週刊少年ジャンプで連載されていた漫画です。主人公は前田慶次で、傾奇者であった慶次をユーモラスに書かれた作品はそのまま北斗の拳の世代の人々に火が付き、知名度が上がった武将と言えよう。

傾奇御免・前田慶次とは?
 織田信長の武将・滝川一益の子で、加賀百万石の前田利家の甥にあたり慶次が養子になり前田姓をなのるようになったと言われている。傾奇者とは傾き者とも呼ばれ、要は姿形が異風であり慶次は好んでその様な格好をしていた。慶次の名前は利益、利太、利卓、利治、利貞といくつもあり定まっていなかったようだ。

 長谷堂城合戦では殿軍(しんがり)を勤め、無事に撤退できたのも前田慶次の活躍があったからのようだ。その長谷堂城合戦後に、ここ堂森へ無苦庵(むくあん)で余生を過ごし慶長17年6月4日に70才で生涯を閉じたらしい。諸芸道が達者で無苦庵道中記や亀岡文殊では和歌を残すなど、山形には前田慶次の面影が残っている
                  (ホームページ山形参照)

傾く(かぶく)

 「かぶく」の「かぶ」は「頭」の古称といわれ、「頭を傾ける」が本来の意味であったが、頭を傾けるような行動という意味から「常識外れ」や「異様な風体」を表すようになった。
 かぶくとは、どっちかに偏って真っすぐではないさまをいい、そこから転じて、人生を斜(しゃ)に構えたような人、身形(みなり)や言動の風変わりな人、アウトロー的な人などを「かぶきもの」と呼んだ。

 

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日本三大菜

2010年12月 9日

 広島菜漬けがおいしい季節となりました。あの歯ごたえと、辛みというか苦味というか、何とも言えない触感がたまりません。広島菜の起源は定説はないようですが、江戸時代に京都から持って帰ったのが一般的に起源と言われているようです。また、「広島菜」「高菜」「野沢菜」と日本の三大菜漬けと言われています。調べてみました。

広島菜の歴史
  起源についての定説は無いが、約390年前(慶長年間に安芸国藩主が参勤交代の時、同行した観音村(現広島市西区観音町)の住人が江戸から帰る途中に京都本願寺へ参詣し、種子を持ち帰ったのが最初とされる。明治に入り川内村(現広島市安佐南区川内)の木原才次が改良を重ね、現在の広島菜の原型をつくりあげたとされている。他にも説があるが、どの説も京都から伝えられた事は共通しており、「京菜(きょうな)」と呼ばれ、またその形状から「平茎(ひらぐき)」とも呼ばれていた。明治初期に瀬戸内海を経て海路にて京阪地方へ出荷されるようになり関西でも知られるようになった。

  「農事調査第四報(広島県農会・明治38年)」によると、明治32年にはすでに広島菜の主産地として、安芸郡川内・三川・緑井村(現広島市安佐南区川内・安古市・緑井)、及び御調郡向島西村(現尾道市向島町)などを挙げている。現在と異なるのは、向島でかなりの広島菜を生産していたことで、当時は瀬戸内海を航行する船舶のの需要、及び京阪地方への船便出荷が盛んであったと推察される。 その頃の広島菜漬の生産は栽培農家の漬け込みによって行われ、自ら市場へ出荷販売するか、仲買人を経て販売されていた。専門の漬物製造業者による本格的な広島菜漬の製造販売は大正時代に入ってからで、上田兼一等によって始められたようである。 県内業者が全国向けの特産品として名称を統一したのは昭和初期のことであり、名称が一般化したのは、昭和8年に広島市猿楽町(現広島市中区大手町)の広島県産業奨励館(現原爆ドーム)で命名展示されてからといわれる。
                      (ウィキペディア参照)

日本三大菜漬け
●広島菜漬け

 日本三大菜漬の一つ広島菜漬は主に広島市の周辺で栽培されており、生産量は少ないのですが大尸うまい漬物です。野沢菜が高さ1mにもなる細長い葉茎なのに対して白菜状の平茎というやや茎の硬い幅広い漬菜です。普通、8月播き11月収穫の作型で収穫後水洗し塩漬にします。さらに2度漬工程を経て塩度3?4%程度に漬上げます。

 広島菜漬は冷凍保存が利くために、漬あがった菜に調味液を加えて密封しこれをマイナス30度で冷凍しています。野沢菜漬の産地移動、4回の冷却工程の代わりに広島菜漬は冷凍で美しい緑色を保つのです。広島菜漬の持つ弱い辛味が絶妙で日本一の菜漬といわれています。美味しい食べ方としては食物繊維が2.7%と野沢菜漬の2.2%より高く硬いので2?に切って食べると広島菜の持ち味がでます。

●野沢菜漬け

 日本三大菜漬の中で最もポピュラーで約5万t程度の出荷量があるといわれております

 産地は全国に広がっており、長野で10月、11月と収穫したあと12月、1月は徳島、2月は静岡、3、4、5月は山梨、長野のトンネル栽培、6月は茨城、7、8、9月は長野の八ヶ岳中腹、戸隠など経度と高さを利用した産地移動をするのです。野沢菜漬は2.2%という少ない食物繊維による軟らかい水持ちの良い茎をたのしむため長さ4?に切って食べます。叩くように細刻すると持ち味がなくなります。野沢菜漬の食塩は約2%程度で野沢菜の持つおとなしい風味と混ざりあった茎の中の液を口の中で楽しむことが出来ます。

●高菜漬け

 日本三大菜漬の1つ高菜漬は明治年間に中国から奈良農試に種子が入り、その後福岡県瀬高町、和歌山県新宮市、山形県内陸部等で主に栽培されています。広島菜漬と同様にふくろ詰めして冷凍された新高菜漬の人気が上がっていますが、量的に多いのはべっ甲色になり特有のかおりを持った古高菜漬です。山形では青菜(セイサイ)と呼ばれ9月上旬播きの11月中旬収穫になっています。瀬高では10月上旬苗床播き、12月上旬定植、4月上旬収穫の春型栽培です。古高菜漬は瀬高で主としてつくられて青菜に紫高菜の血の入った優秀種の三池高菜を使っています。高菜漬は食物繊維が4%あり、古高菜漬は刻んで御飯のおかずにしたり、ラーメンの具、また油炒めにして惣菜売場に並ぶなど利用方法があります。
 

 

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