沼田町商工会通常総会 2012:05:13:07:20:40
昨日(5月12日)2時PMより沼田公民館で「第52回沼田町商工会通常総会」が開催されました。
議事
第1号議案
平成23年度事業報告書並びに収支決算書承認の件(監査報告)
原案通り承認
第2号議案
平成24年度事業計画書並びに収支決算書(案)承認の件
原案通り承認
第3号議案
取引金融機関並びに借入金最高限度額(案)承認の件
広島銀行沼田支店・もみじ銀行沼田支店・広島信用金庫沼田支店・JA広島市町内各支店
限度額 500万円
原案通り承認
第4号議案
沼田町商工会運営規約の一部改正(案)承認の件
商工会入会規約の一部改訂(何時でも入会できるよう会費を月割りとする)
原案通り承認
第5号議案
任期満了に伴う役員改選の件
会 長 田村 司 副会長 二上隆敏・原本正巳
新理事 松浦義明・山本千曲(後18名は留任)
監 事 濱本康典(後1名留任)
原案通り承認
商工会とは
昭和35年に制定された「商工会の組織などに関する法律」に基づいて運営されている地域総合経済団体で、事業経営者を中心とした会員組織をもって通産大臣の許可を受けた公益法人です。沼田町商工会も、常に地域産業の正しい世論を代表し、商工業の発展と地域社会の増進に寄与するために、数多くの事業を展開しております。
沼田町商工会
設立 昭和36年2月1日
性格 商工会法による公益法人地域総合経済団体(非営利団体)
目的 地域内商工業の総合的な振興発展を図り、併せて社会一般の福祉の増進に資すること
地区 安佐南区沼田町全域
組織 「商工業者」並びに「商工会活動に賛同する者」の集団
(会員組織)
会員 552事業所(平成22年3月20日現在)
財源 県・市の補助金、会費、その他 職員 事務局6名
沼田町の人口です。
(沼田町商工会HP参照)
小野田寛郎と鈴木紀夫 2012:05:12:07:03:46
一昨日(5月9日)の朝日新聞に面白い記事が載っていました。鈴木紀夫という冒険家が、フィリピンのルバング島で小野田寛郎さんを発見し終戦を理解させ日本に連れ帰った話です。
鈴木 紀夫
(1949年4月 - 1986年11月)は、日本の冒険家。千葉県市原市八幡出身。法政大学経済学部中退。
経歴
主にヒッチハイクでアジア各国を巡ったのち、中近東・ヨーロッパ・アフリカ大陸に至る放浪の旅に出る。1972年12月一時帰国。
太平洋戦争終結後も、終戦を信じずに帝国軍人としてゲリラ活動を展開していた残留日本兵の小野田寛郎に逢うため、フィリピン・ルバング島に向かう。
1974年2月小野田との接触に成功。ルパング島には日本語が話せる原住民が多かったため、日本語が話せるだけでは日本人と判断されなかったため初対面の際には小野田に銃を向けられて発砲される直前だったが、毛の靴下にサンダル履きという原住民にはない珍妙なスタイルであったため、事なきを得る。この接触により、小野田の救出が現実味を帯び3月に小野田は帰国。かつて「パンダ・小野田さん・雪男に会うのが夢だ」と語っており、最後に残った「雪男発見」に情熱を注ぐ。
1975年7月ヒマラヤ・ダウラギリ群の南東稜コーナボン側斜面の4200m付近に5頭の類人物を望遠観察したと主張。
1978年結婚。結婚後も定職に就くことはなかった。
1986年11月ヒマラヤ・ダウラギリIV峰ベースキャンプ附近で遭難。
1987年10月7日遺体発見。享年38。
関係者の言葉
鈴木つね子(母親)
「よかったなと思いますよ。いいじゃないですかねぇ、自分の好きなことやって」とテレビ番組で語っている。
小野田寛郎
鈴木の死について、「死に残った身としては淡々と受け止めているが、友人の死は残念だ」と語っている。小野田は慰霊のためにヒマラヤを訪れている。
小野田少尉と冒険家鈴木紀夫
戦後三十年、祖国の敗戦を知らずフィリピンのルバング島で戦い続けていた小野田寛郎さんを救出した 冒険家、鈴木紀夫さん(38)は昨年、ネパールのヒマラヤ山中に「雪男」を探し行ったまま遭難死亡が、さる昭和62年10月、確認された。
「もしあの時、鈴木君に遭遇しなったら、私はまだ帰国ずることはなかっただろう」と小野田さんは鈴木さんに恩義を感じており、そのを心から悼んでいる。二人の友情は、十三年前から続いていた。小野田さんは、ブラジルか訪日したのを機会に、来月三日、ネパールの遭難現場に飛ぶことを決意した。「奴の大好きだった酒たっぷりかけてやる」と、小野田さんは言い残して、カトマンズに向かった。
当時昭和49年、まだ弱冠二十五歳、鈴木さんの意表を突く作戦が小野田少尉の救出に成功した。当時鈴木青年はのヒッピーだった。大捜索だから小野田さんは、まずまず懐疑的になっているのだろう。オレだったら、「小野田さんの占領地」に一人で入って行って、野営していれば、「縄張りを荒らすやつは誰だ」と向うからから来るのでなないか、と鈴木は考え、単身ルバング島へ出かけた。
この読みはピタリと当った。鐘や太鼓の大騒ぎの救出作戦は、小野田さんに警戒心を抱かせて効果がない。日本政府の一億円もかけた救出作戦のまちがいが担当者にはわからなかった。日本の敗戦を知らずに30年間も戦い続けた小野田少尉は、鈴木さんの読み通り、現れた。
「もし、奴(やつ=鈴木)があの時、靴下にサンダルという妙な格好していなかったら、撃ち殺していただろう」。なぜなら、フィリピンでは、靴下をはく階級はサンダルなんか履かない。必ず靴を履くから。
鈴木さんの方も、実際に小野田少尉に銃を突きつけられると、動転、「大男が現れた」と震えあがった。小野田少尉は一六〇で小柄な方だが、鈴木君は驚いたから、よほど大きい人に見えたのだろう。
二人はお互いに警戒しつつも、夜を徹して語り合った。信頼関係を築き、翌朝「小野田さんを見つけたという証拠に一緒に写真を撮りたい」と言ったが、鈴木君は機械に弱く、セルフタイマーの扱いがうまくいかず、カメラが趣味である小野田少尉に手伝ってもらって撮ったのが、この写真である。「だらしがないぞ」と小野田少尉に叱られた鈴木君である。
その時撮られた写真
(nozawa22HP引用)