2010年6月

ブブゼラ

2010年6月20日

 昨日(6月19日)奇跡の2度目は有りませんでした。(日本0ー1オランダ)次のデンマーク戦が予選通過の大きな鍵となりました。
 しかし、ブーブーとハエが耳元で飛んでいるような音はうるさいですね。【ブブゼラ】という応援楽器だそうです。

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【ブブゼラ】
 在日南ア大使館の関係者によると、元来は先住民が集団で狩りに出る際、団結を誓うのに吹き鳴らした楽器で、ウシ科の大型動物「クドゥ」のツノで作った笛が起源と言われています。日本なら、戦国時代のホラ貝のようなものでしょう。

 多民族国家の南アは言語も多種多様。アパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃以降、スポーツの応援で一致団結しようと国民に急速に普及したといわれています。

 街で売られているブブゼラはラッパ状で、ほとんどはプラスチック製です。長さは1メートル弱。子ども用の短いタイプもある。現地では高くて700円ー1500円程度。サポーターはひもで肩からぶら下げ、競技場にやって来ます。

 1人で力いっぱい吹くと、「プオーッ」。これが何千、何万人もの合奏になると、「ブーン、ブーン」と虫の羽音のような響きになリます。

 競技場での音量は130デシベルといわれ、ガード下の電車の騒音(100デシベル)を軽くしのぎます。このため、現地では耳栓を買い求めるサポーターが続出しており、耳栓が全部売り切れた店もあるほどだそうです。

問題点
 プラスチック製ブブゼラに成形されている、“人の耳元で吹かないこと”を図示した警告表示ブブゼラは非常に大きな音が出る楽器で、騒音性難聴を引き起こす可能性があります。
 スイスの補聴器会社が設立した財団は、85デシベルの音に長時間さらされることで難聴が引き起こされる可能性があるところ、ブブゼラは127デシベルの音を出すことから耳栓の使用が推奨されるとしている。
 プレトリア大学教授のDe Wet Swanepoelは、3万人収容のスタジアムでブブゼラの音にさらされた11名について、一時的にではあるが深刻な聴力の低下がみられたとしている。

 南アフリカで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2009と2010 FIFAワールドカップにおいて、ブブゼラが出す大きな音に対する不満が挙がり問題視されたものの、FIFAおよび2010 FIFAワールドカップの組織委員会はブブゼラによる応援を禁止していません。

 試合中に吹き鳴らすが、競技場での大音響には、世界中のテレビ視聴者から苦情が出ているという。
 ただ、国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長は「開催国の伝統を禁じるべきでない」としました。
 また、ロイター通信などによると、オランダのファンマルウェイク監督(58)は、開幕前の公開練習で約3000人のサポーターらがブブゼラを鳴らしたことに「選手とのコミュニケーションが不可能となった」と不快感を表明している。

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完全休養日6・13

2010年6月14日

 昨日(6月13日)、広島地方も入梅しました。おかげで、子ども会の球技大会も、体協のソフトボール大会も中止となり、私にとっては完全休養日となりました。家で1日中ゴロゴロしていました。昼ごはんは先日いただいた「うすい中華」(株)の尾道ラーメンを食べました。

「うすい中華」(株)会社概要  
昭和32年3月、広島市中区下柳町、現在の銀山町に誕生した小さな麺屋は、半世紀の時を皆様と共に歩み、広島の麺屋といえば、「うすい中華」と言っていただけるようになりました。
 私の父親であり、初代社長 碓井法雄が「碓井中華製麺所」を立ち上げた頃、まだ広島には、夜の街にたくさんの屋台が並んでいました。口数の少ない、職人気質の「おやじ」でしたが、コツコツと、こだわって作った麺は屋台のラーメン屋さんに気に入ってもらえ、少しずつ商売を大きくしながら、おいしい麺を作ることに精進してきました。その後も、東区若草町、東区曙町へと、規模を大きくしながら移転し、平成7年3月には、東区矢賀に新工場を建設、移転し、それまで懸案だった衛生管理などにも力を入れられるようになりました。
 材料、製法、衛生などにトコトンこだわって、日々麺作りに打ち込んだことが認められ、平成21年には「食品衛生優良施設 厚生労働大臣賞」もいただくことができました。
 代が替わった今も、温故知新、日々研究開発を重ね、製造品目を増やし、それまで以上に材料や製造工程などにこだわった、安全でおいしいものを提供する努力を続けていきます。
     1.食文化を通じ、広く社会に貢献する。
     2.「うまい」をお届けすると共に、食の安心もお届けする。
     3.健全な心と体で お客様と向き合う。
     4.誠心誠意、全力で努力する。
     5.妥協、先走り、慢心を許さない。

 以上の5項目を「会社理念」として挙げて広島の美味しい麺を作っておられます。
 商品として、冷麺・激辛冷麺・ラーメン・パスタ風ラーメン・サラダ仕立て麺等沢山の商品を出されとぃます。

 晩御飯は、久し振りにゆっくりと取ることができました。
 野菜中心に、スライスオニオン・サニーレタス・じゃがいもとベーコン炒めと冷奴・ぶりの照り焼き等でした。そして、ご飯を少々塩昆布茶漬と糠漬けのキュウリでした。
 野菜は、妻が定年になって一生懸命、畑作りをしていますので、取れたてを腹いっぱいいただきました。
 スライスオニオンは、からし酢醤油、サニーレタスは酢味噌で食べました。ジャガイモも取れたてをさっと炒めてタバスコをかけて食べました。最後の糠漬けのキュウリも取れたてを漬けているのでシャリシャリととせも美味しかったです。畑作りが出来る環境に住んでいての、最高な贅沢な食事でした。腹いっぱい食べたのに朝体重を量ると減っていました。
 しかし、今年の気候不順で、玉ねぎが不作でした。横に大きくならないで茎ばかりおおきくなり縦長細い玉ねぎとなりました。作り方がまずかったのかと、近所の友人に聞きますと何処の畑も同じ状態だそうです。

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 今年の玉ねぎ(横に張っていません)

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中国旅行記5

2010年6月13日

 5月27日、朝の散歩で大連港に行きました。大連港からは1945年8月15日の終戦後から約5年間に、旧満州で生活していた開拓日本人のうち約20万人が引き上げ船で帰国しています。妻の父もここから日本に帰ってきたそうです。妻は父の生前に退職したら父を大連に連れて行くと約束をしていたそうです。「岸壁の母」の出発地です。

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 午前中は旅順に行きました。

 旅順 
 遼東半島の先端に位置する旅順口区は「軍港の街」として知られ、日露戦争の激戦地「二〇三高地」など北西部は1996年以降、対外開放されたが、軍港など南東部は外国人の立ち入りが制限されていました。区政府は昨年6月、中国軍の最終許可に先行し軍港周辺の一部を除く地域を外国人にも事実上開放しました。
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  旅順駅

203高地
 203高地は当初あまり重要視されませんでしたが、旅順郊外から旅順港停泊中のロシア艦隊に砲撃しようとする際、弾着を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の参謀であった秋山真之少佐(旅順攻囲戦当時)がこの高地を攻略することを進言したことから、この高地は日露戦争の帰趨を決する旅順攻囲戦において重要な鍵を握る場所になった。203高地からは旅順港が良く見通せたため、攻防の要地だったとされる。

 そのため、日本軍とロシア軍の間で争奪戦が行われ、多くの死者を出した。11月にこの戦場に来た日本陸軍第7師団(旭川)はわずか5日間で1万5千人ほどの兵力が1千人にまで減ったことで、その攻撃の凄まじさがうかがえます。
 防戦側に立ったロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもがこの高地にて命を落としました。
 第3軍の司令官として出征した乃木希典は、自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん)と詠みました。

 1904年12月5日に日本軍が占領し、永野修身海軍大尉が指揮した陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させました。これ以降、旅順要塞側の抵抗は衰えていき、1905年(明治38年)1月1日、ロシア側の司令官ステッセルは降伏し、旅順を開城することになり、1月5日に水師営で停戦条約に調印しました。

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 203高地頂上 爾霊山(にれいさん)石碑

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203高地からの旅順港(左上の島と島の切れ目が出口で、日本軍が船を沈めて出航を阻止)

東鶏冠山
 日露戦争の激戦の舞台になった所です。日露戦争の激戦地といえば、「203高地」が最も有名だが、こちらの「東鶏冠山」も主戦場のひとつでした。
 大連市旅順口区の北東側に鶏冠(とさか)に似た海抜119mの山で、帝政ロシアは1898年に旅順・大連を強引に清国から租借した後、旅順を長期的に占領する目的で、中国人労働者を使ってこの山の北側に半永久的な堡塁を建設しました。
 内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室、台所などの周りに胸墻(きょうしょう)、側防窖室(そくぼうこうしつ)が配置されていました。

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