2010年6月
駐輪場
6月1日、東京都江戸川区の葛西駅の駐輪場を視察に行きました。
江戸川区では、駅周辺の放置自転車をなくし、安全で快適な都市環境を実現するため、17年4月から「総合自転車対策」を実施しています。これにより、放置自転車の台数は大幅に減少したそうです。
区内12駅の放置自転車が95.3%減少
放置自転車 H13年5 月(ピーク時) 9,038台→H21年5 月 429台
8,609台減少しました。
葛西駅に日本一の規模の地下駐輪場が誕生したというのは有名な話で、その機械式駐輪場の凄さはテレビで見て知っていました。総合自転車対策の中でも特に「自転車業務駅別委託による放置自転車撤去啓発活動の効率化」は大いに参考になりまました。葛西駅で担当者からヒアリング調査をさせていただきました。
業務内容は多岐にわたります。
駐輪場の運営・管理業務、駅周辺放置自転車対策業務(啓発・警告札着け・撤去)、撤去自転車保管・変換業務、加えて駅前広場と駅前手洗い所の清掃まで盛り込まれています。
市直営から民間に切り替えたことで作業効率はずいぶんあがったようですし、一括業務委託することで委託業者のサービス徹底の中で業務改善が進みます。また手数料付与によるインセンティブも手伝って指導も徹底されているようでした。
地上からの入り口
市民が駐輪場に自転車を入れている。
駐輪庫
ICタグをつけた前輪フレーム
駐輪場のカード購入機
この立体駐輪場は、1基(250台前後)あたり直径7メートルあれば設置できるものでした。さらに地上でも地下でも整備が可能です。地下の深さは16mだそうです。
自転車は、通常の規格であれば収容可能ですが、マウンテンバイク(タイヤが太いもの)や子供を乗せるイスがついたものは収容できません。買物かごはOKです。登録車は、1ヶ月又は3ヶ月の定期カードを購入し、自転車にはICチップを付け、そのままゲートに置けば、鍵をかけずに施設に入れることができます。自転車を入れる時間は数十秒です。センサーによる安全装置は数か所にあり、対策をとってありました。
また、収納場所のゲートが忘れたり、間違えても、適正なゲートをお知られる仕組みになっています。トラブルは、委託業者の職員が対応し、台車を用意してあります。
国と東京都からの助成も受け、都市計画施設として整備を行っています。葛西駅は、東西線が高架になっているので、環状7号が下を通り、駅前広場の地下に自転車9400台、バイク400台を収容。利用率は80%です。
広島市にも採用して欲しいシステムだと思いました。江戸川区全体の駐輪場を整備するのに約700億円かかったそうですが国と都からの補助金もあったそうです。広島市には新天地地下駐輪場があります。地価を掘る必要もないし考えるよう提案してみたいと思います。また、レンタルサイクルも各駅で行なっていて、観光客・市民が便利に使用していました。
財団法人 北方文化博物館
長い間ブログを休みました。中国旅行から帰り29日(土)30日(日)と家に居ましたが、朝早くから夜遅くまで地域の行事等があり書く時間がありませんでした。31日(月)から政令指定都市議員連絡協議会の総会があり新潟市に行っていました。2010年(平成22年)4月1日現在、全国に19市あります。
総会には「石原伸晃(党組織運動本部長)」が記念講演をされました。
6月1日(月)朝の散歩では信濃川の河口の新潟観光港まで歩きました。佐渡汽船が出航する新潟港では、北朝鮮のマンギョンボンゴウの停泊場所も見ました。
新潟を出発する時間が午後でしたので少し観光をしました。新潟市は信濃川と阿賀野川と言う大きな川があり大変美しい市でした。
新潟市
面積 726.10km? ・ 総人口 811,789人(推計人口、2010年5月1日)
市の木 ヤナギ
市の花 チューリップ
概要
市役所方面から古町を望む2005年の広域合併によって人口が80万人を突破しました。 2007年4月1日に、本州日本海側初の政令指定都市に移行しました。
また広域合併によって郊外に広大な農地を抱え、水田面積が日本一となっており、「田園型政令指定都市」を標榜しています。
市の中心部にあたる信濃川河口部には、古くから港が開かれ、幕末の日米修好通商条約開港五港の1つとなりました。現在でも水陸の交通の要衝です。
1950年代まで、信濃川左岸の新潟島中心部には堀が張り巡らされ、それに沿って柳が植えられていました。そのため、「水の都」「柳都(りゅうと)」などの異名を持っています。
10時AM過ぎから豪農伊藤家の「財団法人北方文化博物館」を見学しました。
財団法人 北方文化博物館
越後の蒲原平野には信濃川と阿賀野川の大河があり、阿賀野川沿いの横越町(現新潟市)にある戸数三百余りの集落を「沢海(そうみ)」といいいます。
ここ沢海の歴史は古く江戸時代の初期、慶長15年(1610年)から77年間は沢海城という城があり、
11,000石のささやかな城下町として栄えていたと伝えられています。沢海城の築城以前は囲いの堤もなく、洪水の際には一面が水に押し流され、水が引き落ちても窪地に水がたまり、沢のようになるので「沢海」と名付けられたと言われています。
その後、沢海は天領となり、代官所、続いて旗本小浜の知行所が置かれていましたが、明治2年(1870年)に藩籍奉還となり、武家による社会は終わりを告げました。
このような歴史の中、江戸時代中期、農から身を起こし、やがて豪農への道を歩み、代を重ねて巨万の富を築いていった一族が伊藤家です。全盛期には、1市4郡60数ヶ町村に田畑1,370町歩(1,372ha)を所有し、越後随一の大地主として、その名は県下に鳴り響いていましたが、農地解放により広大な農地は伊藤家の所有を離れることになります。
この伊藤家の屋敷と住宅が、現在の北方文化博物館で、別名「豪農の館」と呼ばれています。
現在では、かつてのお城も代官所も、小浜時代の知行所も跡形もなく、ただ、かつて豪農の館、伊藤家だけが、昔の面影そのままに、数々の歴史を秘めて残っています。
昭和20年(1945年)8月の終戦直後、伊藤邸土蔵内に旧日本軍の隠匿物資があるという情報で、
進駐軍のライト中尉が調査に来ました。調査で会話を交わすうちに、偶然にも七代文吉がライト中尉のペンシルバニア大学の先輩であることがわかり、それ以後、ライト中尉は伊藤家(北方文化博物館)に絶大な支援を与えてくれることになります。ライト中尉は北方文化博物館草分け期の素晴らしい後援者となりました。
この後の昭和28年(1953年)には作庭に着手し昭和33年(1958年)に完成、伊藤家の屋敷は徐々に博物館としての完成度を高めてゆきました。
現在、伊藤家は八代目。宝暦(1751?63年)の時代から平成に至る250年余の歴史をもつ伊藤家の遺構に、今日も全国から多くの人々が訪れています。
館内に掲げられている扁額「君子居中庸」「倹以養徳」は伊藤家当主の理念、家風を表し、また伊藤家の小作人に対する心遣いが感じられる、「田地買うなら精々悪田を選び、悪田を美田にして小作に返すべし」という家訓は現在も息づいています。