中国旅行記5 2010:06:13:07:46:53
5月27日、朝の散歩で大連港に行きました。大連港からは1945年8月15日の終戦後から約5年間に、旧満州で生活していた開拓日本人のうち約20万人が引き上げ船で帰国しています。妻の父もここから日本に帰ってきたそうです。妻は父の生前に退職したら父を大連に連れて行くと約束をしていたそうです。「岸壁の母」の出発地です。
午前中は旅順に行きました。
旅順
遼東半島の先端に位置する旅順口区は「軍港の街」として知られ、日露戦争の激戦地「二〇三高地」など北西部は1996年以降、対外開放されたが、軍港など南東部は外国人の立ち入りが制限されていました。区政府は昨年6月、中国軍の最終許可に先行し軍港周辺の一部を除く地域を外国人にも事実上開放しました。
旅順駅
203高地
203高地は当初あまり重要視されませんでしたが、旅順郊外から旅順港停泊中のロシア艦隊に砲撃しようとする際、弾着を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の参謀であった秋山真之少佐(旅順攻囲戦当時)がこの高地を攻略することを進言したことから、この高地は日露戦争の帰趨を決する旅順攻囲戦において重要な鍵を握る場所になった。203高地からは旅順港が良く見通せたため、攻防の要地だったとされる。
そのため、日本軍とロシア軍の間で争奪戦が行われ、多くの死者を出した。11月にこの戦場に来た日本陸軍第7師団(旭川)はわずか5日間で1万5千人ほどの兵力が1千人にまで減ったことで、その攻撃の凄まじさがうかがえます。
防戦側に立ったロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもがこの高地にて命を落としました。
第3軍の司令官として出征した乃木希典は、自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん)と詠みました。
1904年12月5日に日本軍が占領し、永野修身海軍大尉が指揮した陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させました。これ以降、旅順要塞側の抵抗は衰えていき、1905年(明治38年)1月1日、ロシア側の司令官ステッセルは降伏し、旅順を開城することになり、1月5日に水師営で停戦条約に調印しました。
203高地頂上 爾霊山(にれいさん)石碑
203高地からの旅順港(左上の島と島の切れ目が出口で、日本軍が船を沈めて出航を阻止)
東鶏冠山
日露戦争の激戦の舞台になった所です。日露戦争の激戦地といえば、「203高地」が最も有名だが、こちらの「東鶏冠山」も主戦場のひとつでした。
大連市旅順口区の北東側に鶏冠(とさか)に似た海抜119mの山で、帝政ロシアは1898年に旅順・大連を強引に清国から租借した後、旅順を長期的に占領する目的で、中国人労働者を使ってこの山の北側に半永久的な堡塁を建設しました。
内部の構造は複雑で、司令部、兵舎、弾薬庫、治療室、台所などの周りに胸墻(きょうしょう)、側防窖室(そくぼうこうしつ)が配置されていました。
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