2010年6月

中国旅行記4

2010年6月12日

 5月26日、午後から国内線で大連に移動しました。空港に降りて感じたことは、北京では32度くらいあった気温が26度くらいまで下がっており非常にさわやかに感じました。歴史からロシア人街・日本人街と残っておりまた、気候も過ごしやすく、治安もよく大変気に入った街となりそうです。

大連市(だいれんし)
 中華人民共和国遼寧省の南部に位置する地級市(地区クラスの市)。
 経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。
 市区人口は211万、都市圏人口は350万人に及び、遼寧省では省都の瀋陽市に次ぐ大都市である。

 

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     大連広域市

歴史
 魏晋の時代には三山と呼ばれ、唐代には三山浦、明清時代には三山海口、青泥洼口と称した。
1880年代に清朝が大連湾北岸に砲台を築き、ようやく都市が形成され始めた。
日清戦争後の1898年、三国干渉の代償として、清から関東州(大連、旅順など)を租借したロシアが、東清鉄道の終着駅を設け「ダーリニー」(Дальний; 「遠い」)と名づけた。
旅順にある艦隊と要塞の物資をまとめるため、また貿易の拠点として、港の整備とパリをモデルにした都市づくりが始まった。

 しかし、1904年に勃発した日露戦争により、同年5月末には日本軍が無血入城を果たし、戦後の1905年ポーツマス条約により日本に租借権が譲渡された。
 日本は古地図に見られる中国語の地名「大連湾」からとった「大連」を都市名として採用した。これはロシア名のダーリニーと発音が似ていることにもよる。

 ロシアの租借地時代は、現在の大連駅から東側の区割りとごく一部の建築物ができた状態であった。日本は、大連を貿易都市として発展させるため、関東都督府と南満州鉄道にインフラの整備を続行させた。
 その結果、道路のアスファルト舗装や、レンガなど不燃建築物が立ち並ぶ町並みができあがった。昭和初期には現在の大連駅とその駅前一帯が整備され、旧市街がほぼ現在の形になる。

 第2次世界大戦末期の1945年、日ソ中立条約破棄によりソ連赤軍が対日参戦。このときにソ連は大連を占拠した。同年9月に戦争終結後も、中ソ友好同盟条約に基づきソ連は大連港を旅順港や南満州鉄道と共に引き続き管理下においた。中華人民共和国に返還されるのは1951年のことである。もっとも、このために、国共内戦では 国民党側の支配下に入ることはなく、終始共産党側にあった。
 1951年に旅順市を合併し、旅大と改称したが、1981年に元の大連に名前を戻している。
 1990年代の改革開放経済のもと、中国東北部の中でも特に目覚しい経済的発展を遂げている。

気候
 大連市は北半球の温暖地帯―ユーラシア大陸の東海岸にあり、気候は海洋性の特徴も兼ね備える暖温帯大陸性モンスーン気候に属し、冬は厳寒ではなく、夏は酷暑でもなく、四季がはっきりしている。
 年間平均気温は10.5℃、年間降水量は550ー950mm、日照時間は2500ー2800時間である。

  800px-Zhongshan_Square,_Dalian.jpg       

     中山広場

(フリー百科事典ウィキペディア)参照


 

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6月定例会 開会

2010年6月11日

 昨日(6月10日)から6月定例会が始まりました。会期は6月22日までの13日日間です。10時より開会され4期の議員が全国議長会から15年表彰を受けたことの報告があり、広島市議会として議長名で感謝状を贈呈しました。その後、各種の報告があり市長が議案趣旨の説明をしました。

 今議会の焦点は、旧広島市民球場を解体するために「旧広島市民球場条例」廃止案の提案です。解体予算は3月の議会で数にならなくてしぶしぶ認めましたが、旧市民球場条例を否決しました。その結果、捻じれ現象が生じ、当局が提案した8月には会議所が移転する部分(一塁側内野スタンド)を解体する事が出来ない状態となっていました。そこで今定例会に廃止条例案を再度提出してきました。
 市民合意が出来ていないと議会として判断をしたので、予算は通したものの、苦肉の策で廃止条例を否決しました。今回の再度の提案は、全く議会・市民の真意を無視した提案です。

 五月末までに、パースを描くと担当部局は説明してきました。(平面計画、パースを描く為の予算を昨年9月議会で承認)そのためには、平面図(平面計画)5月連休明けには完成していないと5月末までにパースは描けません、平面図を見せて欲しいと申し出をしましたが、「平面図は描いてあるが、商工会議所と協議しているのでもう少し待って欲しい」とのことでした。未だに平面図は見ていません。
 しかし会議所との協議にしても、土地の大きさ、建物の大きさ、資金の問題、都市計画変更の問題等、細部に渡って詰めなくてはいけない、課題が多くあります。(時間が掛ります)会議所が移転すると言う大きな話です。非常に不確定要素を含んでいます。なぜそんなに急いで解体したいかよく解りません。
 8月から解体?(一塁側内野スタンド部分)もしそうだとしたら、解体した跡地はどうするのか、理解に苦しみます。
 いつもの通り説明責任を充分に果たしていません。

 10時からの開会に合わせて議場に行くと、旧市民球場解体反対の市民の方々が議場の前に沢山来ておられました。
 これまで市長が提出した議案に対して市民団体として反対行動は起こったことはありませんでした。子ども条例・旧市民球場解体に対して多くの市民が団体として公然と反対の行動に出ておられます。
 市長はこのことをどのように考えておられるのでしょうか。独裁市政への批判が吹き出ているのではないでしょうか。

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中国旅行記3

2010年6月10日

 5月26日、今日は昼から北京を離れて大連に移動する日です。午前中天安門広場・故宮博物院を散策しました。

天安門広場
 天安門広場は最大で50万人を収容でき、国家行事や歴史上の大事件の舞台となってきた。そのため幾度となく革命運動の舞台にもなり抗争が起こってきた。南北880m・東西500mにわたる世界最大の広場。敷石は花崗岩である。北は北京随一の大通りである長安街が位置し、その反対側に紫禁城(故宮)の入口である天安門が位置する。広場の中は、北から人民英雄紀念碑、毛主席紀念堂、正陽門(前門)が設けられ、広場の西側には人民大会堂(全国人民代表大会議事堂)、東には中国国家博物館(旧・中国歴史博物館および中国革命博物館)がある。これは太陽の昇る方角を過去、沈む方角を未来に比喩したものである。

 周囲の歩道の敷石にまじって長方形の鉄板が敷かれている部分があり、下に水を流せる架渠構造になっている。大規模な集会に際し鉄板を外して周囲を天幕で覆い、臨時のトイレとして使用される。
 1969年に、中ソ関係の悪化に伴い、北京地下城というシェルターが作られた。現在は観光スポットとなっている。

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天安門広場

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人民英雄紀念碑

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人民大会堂(全国人民代表大会議事堂)

故宮博物院
北京市の故宮博物院は、もとの宮殿(紫禁城)であった所を博物館にしている。大部の所蔵品は文化大革命時に破壊された。

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  故宮博物院正面

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 故宮博物院城内から

 

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