2011年12月

クリスマス寒波

2011年12月25日

 昨日(12月24日)から寒波が日本列島に入って来ています。俗に言う「クリスマス寒波」です。「ホワイトクリスマス」となりました。クリスマス寒波・年末寒波・成人式寒波・節分寒波等いろんな名前が付けられているので、調べて見ましたが法則とか、決まりごとは無いようです。来た時期で適当に名前を付けているようです。

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              畑も近所の家の屋根も薄化粧でした。

 今朝の散歩は、雪の中の散歩でした。我が家の外気温度は0度でした。周りは雪で薄化粧でした。

 広島地方気象台によると、24日朝の最低気温は呉市(1・8度)や益田市(1・2度)で今季最低でした。広島市中区は1・3度で、平年より1・6度低かった。各地の積雪量は午後6時現在、北広島町八幡で48センチ、島根県奥出雲町横田で31センチ、松江市では今季、初めての積雪となりました。

 昨日・今日と行事が何も入っていません。久し振りに完全休養日となりそうです。まだ、忘年会は続きます。また、新年宴会も続きそうです。のんびりとしようと思っています。

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クリスマスイブ

2011年12月24日

 本日(12月24日)は、クリスマスイブです。クリスマスイブのことをクリスマスの前夜祭と言われていますが少し解釈が違うようです。クリスマスはキリストの降誕祭です。協会に行ってミサをあげる日だそうです。24日の夕方のミサをイブ(イブニング)から25日の夕方のミサまでをクリスマスと言うのだそうです。
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 クリスマスが日本に入ってきたのは何時からか?バレンタインデー・恵方巻き等商売に利用されて発達した行事と同じではないでしょうか。

明治維新以前
 クリスマスについては、1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において宣教師コメス・デ・トルレスたちが日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが日本で初めてのクリスマスである。しかし、その後江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治の初めまでまったく受け入れられることはなかった。

 クリスマスイブについては、ポルトガル人で日本に布教にきていたルイス・フロイスの手紙には、1565年(永禄8)の今日、堺で数十人の武士を招きクリスマス・イブを祝ったという記録が残っている。なお、12月25日がイエス・キリストの降誕記念日となったのは4世紀頃といわれる。クリスマスのことをフランスでは「ノエル」、イタリアでは「ナターレ」、ドイツでは「ワイナハテン」という。

明治時代
 日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年(明治33年)に明治屋が銀座に進出し、その頃からクリスマス商戦が始まったことが大きな契機であった。

大正時代
 大正時代になると、児童向け雑誌や少女雑誌の十二月号には、表紙をはじめとしてクリスマスにまつわる話や挿絵がたくさん導入された。1925年(大正14年)に日本で初めてクリスマスシール(結核撲滅の寄付切手)が発行される。

昭和(戦前)
 1926年12月25日、大正天皇が崩御し、昭和時代が幕を開けた。当時の法律「休日ニ関スル件」では先帝崩御日を休日と定めていたため、クリスマスの習慣が広く普及したとされる。1948年(昭和23年)に「国民の祝日に関する法律」が施行されると休日ではなくなった。

 1928年(昭和3年)の朝日新聞には「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるまでに普及していた。

昭和(戦後)・平成
 現代の日本ではクリスマスは年中行事として定着した。商業施設では早いところは11月上旬からクリスマスツリーが飾られ、クリスマスセール等が行われる。

                (Yahoo知恵袋 引用)

追伸

 次のような記事を見つけました。イブの事を次のようの解釈するそうです

性なる夜
 12月24日の21時から翌3時までの6時間のこと。
なおこの日に受精するとおよそ9月12日くらいに産まれる。

 私の息子は9月11日生まれです。

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風呂好き

2011年12月23日

 忘年会が続いています。一番困るのはゆっくりと風呂に入れないことです。夜、何も予定がない日、早めに風呂に入ってのんびりするのが一番のリラックスです。私も好きですが日本人全てが風呂好きなのではないでしょうか。世界の風呂好きは古代ローマ人と日本人だそうです。

 東日本大震災を取材した、海外メディアが特に驚いていたのが、この状況下でも風呂に入ろうとする 日本人の精神だそうです。周りは瓦礫ばかりでとても風呂どころではないのですが、風呂好きの日本人にとって、 風呂が無い生活は考えられない。 自衛隊が用意した簡易風呂もよいが、瓦礫でつくった露店風呂もなかなか風情があって良い。

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 『この状況下でも風呂に入ろうとする日本人の精神は考えられない』 などと、海外メディアは、度肝を抜かれたようです。

 世界の風呂好き民族の双璧は、古代ローマ人と日本人です。

 古代ローマでは公衆浴場をテルマエ(thermae)といい、市民たちは盛んに入浴していた。古代人は日の出とともに活動を開始し、日が落ちると眠る。よって仕事は午前中で終わり、そして仕事帰りにはひとっ風呂浴びて、社交の時間を楽しむのだ。
(ワークライフバランスいいですね)

 公衆浴場と言っても、ただの銭湯とは規模が違うし、機能も多彩。スポーツジムに、各種ボディケア、軽食や飲み物、遊戯室に談話室。そもそも入浴も、温浴と冷浴の両方があり、サウナ(蒸し風呂)もある。装飾は噴水や、居並ぶ神々の彫像の肉体美だ。まさに複合文化センターといった趣です。

 さて、気になる入場料は、格安。パン一つ、またはぶどう酒一杯程度の、4分の1アッシスだったという。軍人や子供は、無料。奴隷も入場可能で、公務員であればやはり奴隷でもタダ。浴場では、身分の別なく裸の付き合いであったようだ。元々混浴だったが、ハドリアヌスの時代から男女時間別になった。首都ローマだけでなく、都市ではどこでもあり、軍団基地にも大規模な浴場があった。

 これほどまでの風呂文化を支えるのはやはり、水道だ。ローマだけでも、巨大な水道橋は11もあり、今日のローマ市の実に十倍もの水が供給されていた。もちろん、上下水道は完備。なにしろ幹線道路だけで地球2週分(8万キロ)も作るような人たちだから、彼らのインフラ整備にかける情熱は驚嘆に値する。ローマ人は自らの技術を、人間の生活や現実に役立つものを作ることに傾注しました。

 だが、このような風呂文化も、帝国が衰退し、キリスト教の時代になると廃れた。キリスト教の文化は裸を受容しない。(アダムとイヴ、聖書の創世記を思い出そう)神々の彫像、裸体の彫像は破壊され、「裸の付き合い」も出来なくなった。体を清潔に保つ入浴の習慣はヨーロッパから消えてしまった。

しかし、ローマ帝国からはるか東の極東の島国、日本に風呂文化は受け継がれていた!?日本人も相当に風呂好きである。(そしてローマ人も日本人も温泉好きだ)ユニットバスの普及は少なくとも高度成長の時代のようだが、銭湯の起源はなんと鎌倉時代にまでさかのぼることが出来るようであり、江戸時代に盛んになったらしい

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