2012年1月
四十九日法要
昨日(1月11日)は、母の四十九日法要を営みました。その後、納骨を行いました。今まではお骨になっているとはいえ我が家に居ました。昨日からは父と同じお墓に入りました。まだ、奥の部屋から出てくるような気がしています。でももう写真だけとなりました。
納骨の後、昼食会を行居ました。(法事の後の食事を「お斎(おとき)」と言うそうです。親族が集まって久し振りに色んな話をしました。懐かしい時間でした。これで一区切りとなりました。
【斎(とき)】
小乗仏教の僧侶は正午以前に食事をとり、それ以後は摂らないが食事をしない時間を非時(ひじ)といい、食すべき時の食事を時食、斎食という。そのことから、僧侶の食事や法事での食事を斎という。
母の息を引き取る時を思い出しました。母の頭を、なぜながら「もう頑張らなくていいよ。楽になりんさい。」と言いました。六十五年間生きて来て自分の頭をなぜてもらったことは沢山ありましたが、初めて母の頭をなぜました。その時の感覚は、自分の頭をなぜている感覚に陥りました。【ああ!!親子なんだな】と強く感じた感覚が今も手に残っています。
谷口家で私が最年長になりました。母は90歳、父は73歳と生きました。まずは、父の年齢を目標に生きていこうと思います。
新年互礼会
ここの所、新年互礼会が続いています。
1月7日(土) 安佐医師会新年互礼会
1月8日(日) 新春ロードレース大会 伴地区スポーツクラブ新年互礼会
1月9日(月) 広島県医師会新年互礼会
今年8月に広島市で核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が23年振りに開催されるそうです。
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)
(International Physicians for the Prevention of Nuclear War: )
核戦争を医療関係者の立場から防止する活動を行うための国際組織で、1980年に設立された。本部はマサチューセッツ州サマービル(Somerville)。各国に支部があり、日本支部の事務局は広島県医師会内にある。
米国のバーナード・ラウンとソ連のエーゲニィー・チャゾフが提唱した。1981年以来、現在は隔年で世界会議と地域会議を開催している。83カ国、約20万の医師が参加している。1985年にノーベル平和賞を受賞。2012年に開催される20回目の世界大会は、23年ぶりに日本で行われる予定。(今年8月に広島で開催されます)
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
1月10日(火) 広島県生活衛生同業組合連合会新年互礼会
広島県生活衛生同業組合連合には次の13の組合が参加しています。
広島県興行生活衛生同業組合・広島県クリーニング生活衛生同業組合
広島県理容生活衛生同業組合・広島県美容業生活衛生同業組合
広島県公衆浴場業生活衛生同業組合・広島県ホテル旅館生活衛生同業組合
広島県食肉生活衛生同業組合・広島県飲食業生活衛生同業組合
広島県料理業生活衛生同業組合・広島県社交飲食生活衛生同業組合
広島県喫茶飲食生活衛生同業組合・広島県すし商生活衛生同業組合
広島県食鳥肉販売業生活衛生同業組合
1月9日(月)には恒例の「とんど」も行いました。
今年は竹が少し少なかったようです。
東北旅行4日目
4日目(1月6日)
秋保温泉(バス)→仙台駅(タクシー)→被災地(荒浜地区・閖上地区)視察→仙台空港(飛行機)→広島空港着
3泊4日の旅の最後の日です。久し振りにのんびりした良い旅でした。磐梯熱海温泉・花巻温泉・秋保温泉と周りました。お湯の質は花巻温泉の湯が1番良いと感じました。入ると肌がツルツルになりました。今回の旅は夫婦になって初めて贅沢な旅をしました。それぞれの宿は素晴らしい宿でした。年に1回くらいこのような旅をしたいと妻と話しました。
仙台駅からタクシーで若松区荒浜地区・閖上地区を周り仙台空港に行きました。この時代に生きた者として被災地は見ておかなければならないと考えていました。今回の旅の目的はここにも有りました。
仙台市の被害状況
平成23年(2011年):3/1時点における仙台市の人口と世帯数
人口:1,046,654名
世帯数:465,408
※ 仙台市のHPより
1/4:17:00、時点の仙台市の被害状況※ 宮城県HPのデータより
死者数:704
行方不明者数:26
避難者数:0
避難所数:0
住宅、建物被害(全壊数+半壊数):114533
仮設住宅建設完成戸数:1523 (完成度100%)
仮設住宅建設箇所(団地数):19
※ 仙台市の避難所は7月末に全て閉鎖されました。
海に向かって写真を撮りました。地面にあるブロックは家の敷石です。沢山の民家が有ったそうですが、片付いてはいますが何も無くなりました。タクシーの運転者さんが目標物がなくなったので、道が解らなくなったと言っておられました。
荒浜小学校(グランドに瓦礫が集められていました)
唯一と言っていいほどの高台にお宮が有りましたが流されていました。逃げようがないと感じました。慰霊の碑が立ててありお花が沢山供えられていました。
広島の原爆の後、父が九州から復員して宇品港に上がったとき、宇品港から横川が良く見えたと聞いていました。この景色はその時と同じような景色だろうなと思いました。
道路のすぐ側に船が転がっています。何カ所も見ました。
地区名が荒浜(あらはま)・閖上(ゆりあげ)地区でした。平成11年6,29の水害の時も感じましたが昔から付けられている地区の名前は非常に大事で歴史を物語っていると思います。
荒浜は読んだ字のままですが、閖上については辞書にも載っていません。
閖上
仙台藩主 四代伊達綱宗公が,仙台市の大年寺に参拝の帰り,山門内からはるか東方に,海岸の波打つ浜をご覧になり,家臣のものに地名を尋ねたところ,「ゆりあげ浜」とはいうもののその漢字がないことを知りました。
そこで,「門の中から水が見えた故に,今後,門の中に水と書いて閖上(ゆりあげ)と呼ぶように」とのお言葉で,「閖」という珍字が誕生したとのことです。