2012年1月

開拓者たち

2012年1月25日

『開拓者たち』(かいたくしゃたち)は、2012年の日中国交正常化40年記念ドキュメンタリードラマです。
 第二次世界大戦前、満蒙開拓移民として満州に渡っていった一人の女性の視点で物語は描かれていました。
 満州に渡った開拓移民は千振(ちぶり。現:中華人民共和国黒龍江省樺南市)に入植し「千振開拓団」として開墾にあたりました。太平洋戦争が始まっても満州は大した影響もなく生活は安定していました。しかし、しかしソ連の対日宣戦による侵攻でがらりと変わりました。それに伴う収容所での抑留などの苦難を経て、日本に引き揚げる時の困難さ、そして開拓移民の為に国が用意した入植地(栃木県那須町)にて再び「千振開拓地」を開いて開拓にあたったという、実話を元に製作されたドラマでした。
 ノンフィクションとしながらも実話を元に作られ、実際に生き抜いた方々のインタビューを交えてのドラマ作りでしたのノンフィクションの感じは持てませんでした。

 四話に分けて放送されましたが、ビデオに撮って見始めたら面白く、一気に観ました。戦前戦後と日本の動きが良く解りました。東北の小作農の貧しさと、それを生き抜いたたくましさに感動しました。昨年の東日本大震災で被災した東北地方の皆様へ「このようの頑張った先輩がいる」と言う応援の意味を込めてのドラマだそうです。

第一回「新天地へ」
 宮城県の寒村に育ったハツは、貧しさから「口減らし」として、大陸の花嫁となることを求められ、昭和11年、梅子、チエ、鶴子とともに旧満州(中国東北地方)の千振へ渡り、初対面の速男と結婚する。
 速男は「まあいい」が口癖で、ハツに無愛想だったが、助産師になるための勉強をしながら、必死に働くハツにしだいに心を開き、ハツの願いだった、弟の金次、史郎、妹の富枝を呼び寄せることを承諾する。
 史郎は、宮城でも満州でも、いつもいじめられていた泣き虫だったが、助けてくれた中国人の小作の子の春岐と仲良くなり、やがて馬との出会いが、史郎にたくましさを与え、やがて酪農に夢を見出すようになった。金次は憲兵隊に入隊するが、中国人への拷問を命じられ苦悩する。病院で働いていた富枝は、看護師をめざして北安へ旅立っていった。
 太平洋戦争が始まっても、旧満州では目だった戦闘もなく、食糧も確保されていたが、昭和20年7月、速男ら働き盛りの男たちは突然召集される。最後の朝、ハツは速男が帰ってきたら山を見に行こうと約束する。そして8月9日、ソ連軍が侵攻、前線にいた速男は、砲弾で重傷を負う。千振の人々には避難指示が出た。ハツや史郎は駅に向かうが、目の前を列車が発車していく。

第二回「逃避行」
 鉄道は爆破され、ハツたちは徒歩での避難を強いられることになった。リーダーを命じられたのは史郎だった。一行は西をめざすが、しだいに食糧は尽き、飢えと寒さが子どもや老人の命を奪っていく。逃避行のさなか、ハツの仲間の梅子は赤ん坊を出産、一方チエは、命を守りたいと息子を中国人の農家に預ける。
 一方ハツの友人の鶴子がいる分屯は、千振に残る決断をするが、暴徒化した中国人の襲撃を受け、集団自決の道を選んだ。
 ハツの妹、富枝のいた病院にはソ連軍が進駐、女性に乱暴を働こうとしたが、一人の女性に救われる。その後、中国共産党の軍が来て、富枝たちに従軍を要請する。富枝はそれに応じ、一日数十キロもの行軍をすることになった。これは留用と呼ばれ、一人軍から脱出したチエの夫、進作も炭鉱に留用される。金次はソ連軍の尋問を受けるが拷問の事実は黙っていた。
 ハツの夫速男は、鶴子の夫、盛光、梅子の夫、力とともにシベリアに抑留され、重労働を命じられる。足の痛みと肺炎で速男のからだは弱っていく。
 ハツや史郎たちは、ようやく方正の避難所にたどりつくが、そこで、ハツの二女、恵子は命を落とす。悲しむ間もなく、ハツたちはさらなる移動を命じられる。

第三回「帰国」
 ハツたちは、以前「満州国」の首都があった長春に移動させられ、そこで千振の団長だった吉崎と再会、納豆作りをして日々の糧を得ていく。ハツは長春の町で親を失った少女と出会った。少女の名は恵子。ハツが亡くした二女と同じ名前だった。ハツはこの子の面倒を見ようと決意した。そこに引き揚げ船が出るという知らせが来た。みんなが喜ぶなかで、ハツは自分はここで速男を待つというが、梅子になだめられる。
 富枝は、行軍を続けるなかで、懸命の看護を認めてくれた中国人の兵士、徐と親しくなり、しだいに心を寄せていく。
 炭鉱に留用されたチエの夫、進作は、不発のダイナマイトを調べようとして事故にあうが、中国人の労働者との間に友情が芽生えていく。
 日本に帰国したハツや史郎はいったん実家に身を寄せるが、親族の視線は冷たかった。
しばらくして、吉崎から栃木県の那須で再び開拓をしようという呼びかけが届く。早速那須へ行ったハツは、噴煙をあげる那須岳を見て、ここで速男を待つと決意する。
 那須の土地は篠竹が茂り、酸性も強く、史郎たちは懸命に働くがなかなか良い収穫は得られない。しかしハツは明るさを失わず、みんなの支柱として頑張る。
 やがて、シベリア抑留者の帰国が始まる。しかし速男の名前は名簿になかった。帰国した盛光と力から、ハツは夫速男の死を告げられた。「俺が帰ってくるまで泣くな」という速男との約束を守ってきたハツ。一気に涙があふれる。

第四回「夢」
 那須では、土壌が悪く、なかなか野菜やいもが育たず、史郎たちは途方にくれた。ようやく牛が飼えるようになり、小さな規模だが、牧畜が始まり、早朝から夜遅くまで牛の世話と開墾にあけくれる日々が続いていく。金次は、戦犯管理所で、史郎の友達だった春岐と再会する。春岐は人民解放軍に入り下士官となっていた。検察官の取調べが始まると、金次は自分が犯した罪の深さに恐れおののく。春岐は、まず認めることだと諭し、金次はついに皆の前で自分の罪を告白し、不起訴処分で帰国が認められる。一方富枝は、徐と恋におちるが、上官に見つかって厳しく追及され、徐と別れることを強いられた。徐は朝鮮戦争の最前線へと赴く。やがて富枝は帰国を認められるが、朝鮮戦争後、徐と再会、中国で二人で暮らすことを決意する。

 史郎たちの農場はようやく軌道に乗り、史郎も自分の恵子に対する気持ちに気づき、二人は結婚する。質素な式で、ハツは戦前から戦後への開拓の日々を振り返る。
そして・・・

                   (NHK BS オンライン引用)

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大寒波襲来

2012年1月24日

 今朝(1月24日)は冷え込みました。室内が6℃ 屋外はマイナス3度でした。5時30分過ぎから小雪も降ってきました。
 天気予報が23日以降は第一級の寒波が入り、その寒気が居座り、全国的に平年より冷え込みが強くなると言っていましたが、これまで以上に万全の寒さ対策が必要なようです。

 日本気象協会は、1月23日(月)から2月上旬にかけて日本列島へ流れ込む寒気について、「過去の記録的豪雪に匹敵する寒波になる恐れ」があると発表しました。日本付近の気温は平年に比べ2ー3度以上低くなる見通しで、北陸や西日本の日本海側を中心に大雪になる恐れがあるため、交通機関の混乱などに十分な警戒が必要としています。1/25ー2/3にかけて低温が見込まれるとして、「異常天候早期警戒情報」を出して注意を呼びかけています。 

    低温.png

                  (気象協会HP引用)

 広島地方気象台からも次のような発表が出されました。

低温に関する異常天候早期警戒情報(中国地方)
 平成24年1月20日14時30分 広島地方気象台 発表
 要早期警戒  警戒期間 1月25日頃からの約1週間

 対象地域 中国地方
 警戒事項 かなりの低温(7日平均地域平年差2.0℃以下)
 確率    30%以上

 今回の検討対象期間(1月25日から2月3日まで)において、中国地方では、1月25日頃からの1週間は、気温が平年よりかなり低くなる確率が30%以上となっています。また、この状態は1月28日頃からの1週間まで継続する見込みです。農作物の管理等に注意して下さい。また、今後の気象情報に注意して下さい。

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第9回伴地区ソフトバレーボール

2012年1月23日

 昨日(1月22日日曜日)、第9回伴地区ソフトバレーボール大会が9時30分AMより安佐南区スポーツセンターで開催されました。主催は伴地区スポーツクラブです。

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          選手宣誓(戸山地区の選手が抽選に当たりました)

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         伴地区スポーツクラブの主催で本日の参加費は200円です

 参加は約70名で、各地区(伴・伴東・大塚・伴南・戸山学区体協)より14名の選手を出し、それを10チームに分けて、地区対抗戦でなく親善の意味で抽選によりチーム構成を行い試合を行いました。昨年よりこのような試みで大会を運営されています。中々面白い企画で沼田地区の親善には持って来いの企画と感じました。

追伸

 昨日(1月22日)はカレーの日だそうです。1982(昭和57)年、全国学校栄養士協議会で1月22日の給食のメニューをカレーにすることに決められ、全国の小中学校で一斉にカレー給食が出されたという事で、1月22日決まられました。

カレーの日
 ▲1982年、全国学校栄養士協議会の決定で、全国の小中学校が一斉にカレー給食を出した。76年に正式導入された米飯給食の普及にも大いに貢献し、不動の国民食の地歩を固めました。

 ▲ 個人的な思い出と「おせちに飽きたら…」のCMの影響か、カレーの日は何となく1月にふさわしい。肉と野菜がバランス良くとれ、香辛料で体が温まるカレーは、年始の疲れた胃や受験生の心に活力を与えてくれそうです。

 ▲ 古くは正岡子規も、随筆「仰臥漫録」によると1901年に「ライスカレー三椀(わん)」を食べている。没後110年の催事で再現されたその味は「タマネギではなく長ネギを使った和風だし」でした。味の論評は残っていないが、ハイカラな西洋文明の香りがしたでしょうか。

 ▲ ちなみにカツカレーの生みの親は、西条市出身の元巨人内野手千葉茂さん。48年、銀座の洋食店グリルスイスを試合後に訪れ、カレーにカツを乗せるよう注文したのがきっかけという。店では今も「千葉さんのカツレツカレー」、通称チバカツが味わえるそうです。

 ▲ カレーの数だけ人生が、物語がある。そう言い切れそうな気もするところがカレーの奥深さではないでしょうか。

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