アロハシャツ 2012:01:29:08:13:15
昨日(1月28日)「あっぱれ熟年ファイターズ」と言う番組で山口県周防大島の特集をやりました。その中で、「日本ハワイ移民資料館」についての紹介があり、広島と山口はハワイ移民が非常の多かったと言っていました。
日本ハワイ移民資料館
日本初の海外移民が行われたのは明治十八年。944名の第一回官約移民のうち、約3割は大島郡の人たちでした。以来、大正十二年に移民禁止となるまでに海外へ移住した日本人は百万人を超え、大島からもたくさんの人が海を渡り、その孫たちは五世・六世に及んでいます。
周防大島町とハワイを結ぶ絆の深さは、日本初のハワイ資料館にも表れています。この資料館には、移民の歴史から現在行われているハワイとの交流までを知ることができる、貴重な資料がたくさんそろっています。
その資料館にアロハシャツは、日系人の発案で作られたとの展示コーナーがあるそうです。興味があるので調べてみました。
アロハシャツの起源
19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、多くの日本人が夢を求めてハワイに移住しました。彼らのほとんどは、まだ貧しかった日本での暮らしから、新天地での夢を抱いて海を渡り、主にサトウキビ畑の労働者として働きました。
当時、農園で働く労働者たちが着ていた作業着が「パラカ」と呼ばれる開襟シャツ。パラカは、もともとヨーロッパの船員たちが着ていた上着がその起源といわれていますが、青いチェック柄の木綿地で作られたそのシャツは、日本人にとってなじみの深い「絣(かすり)」に風合いがよく似ており、そのため、多くの日本人移住者もこのシャツを愛用していました。このパラカシャツが、現在のアロハシャツの原型になったといわれています。
日本人移住者たちは、日本から持参した着物をとても大事に着まわしてきました。そして、いよいよ擦り切れて着物としての用を足さなくなったとき、それをなお有効に活用するために、使える部分を子ども用のパラカ風シャツに仕立て直して子どもたちに着せていたといいます。
「もったいない」の心から生まれたそのシャツは、着物独特の色や柄が現地の人々にとって新鮮でエキゾチック、とてもオシャレに映ったのでしょう。1900年代のはじめに、そうした着物地のシャツを見た現地の人々が、それを真似して市販の着物や浴衣の生地でシャツを作って着るようになったといいます。
発展するアロハシャツ
1935年以降、アメリカ経済は大恐慌の不景気から徐々に回復していきます。それと同時に、アメリカ本土の人々が西海岸からハワイに観光で訪れる数が増えていきました。日系人だけでなく、現地ハワイアンたちの間でも親しまれるようになっていたアロハシャツですが、それを見た米国本土からの観光客たちは、ハワイを訪れた記念として買い求め、本土へ持ち帰るようになりました。そうやって、着物地のシャツはハワイ名物として徐々に広まっていき、現在の「アロハシャツ」のルーツとなったのです。
当時の新聞には、アロハシャツを扱う店の広告が年々増え、ハワイを訪れたハリウッド俳優たちが誇らしげにアロハシャツを着ている写真などを見ることができます。こうしたアロハシャツ人気を支えていたのが、主に日系や中国系の人々が営む街の仕立屋たち。アロハシャツ発展の歴史の陰には、常に日系人の存在があったのでした。
豆知識 伝説の仕立屋、「ムサシヤ」
その後、1915年に創業者の長太郎氏が他界すると、日本で暮らしていた長男の孝一郎氏がハワイに帰国して店を継ぎ、店名を『ムサシヤ・ショーテン』(日本語名は武蔵屋呉服店)と改めます。 父の後を継いだ孝一郎氏は、大々的な新聞広告によって着物地のシャツを広めることに成功し、当時、ホノルルで最も有名なシャツ店となりました。
ムサシヤ・ショーテンのアロハは、今日でも「ヴィンテージ・アロハ」としてマニアの間で大変な人気です。
(海外移住資料館HP引用)
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