2012年1月
東北旅行3日目
3日目(1月5日)
花巻温泉駅(東北本線)→平泉駅→平泉観光→平泉駅(東北本線)→一ノ関(東北新幹線)→仙台駅→秋保温泉 「茶寮 宗圓」泊
花巻温泉から在来線約40分かけて平泉に行きました。昨年「世界遺産」に登録された平泉です。ここも歩いて観光をすることに決めました。温度は0度でした。
「JR東北本線平泉駅」三が日を外したので観光客は少なかったです。
毛越寺(もうつうじ)
寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。
大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これは毛越寺の開山にまつわる話です。
雪の中尊寺
ご本尊の阿弥陀如来
中尊寺 白山神社能楽堂
雪の中の中尊寺を堪能しました。金色堂も観ましたが写真撮影禁止のため撮影出来ませんでした。
13時過ぎに平泉駅に帰り暖かいそばを食べました。人心地着きました。
平泉駅から在来線で一ノ関駅に行き、東北新幹線で仙台に行きました。仙台駅の中を少し歩きましたがすごい人で東京にいるような感覚に襲われました。元気いっぱいの仙台を感じました。震災特需が始まっているようです。
駅前からバスに乗り秋保温泉に行きました。早めに宿泊地の「茶寮 宗圓」に入りました。立派な旅館で庭がすごい旅館でした。露店風呂もムードたっぷりの湯でした。
露店風呂
東北旅行2日目
2日目(1月4日)
磐梯熱海温泉(磐越西線)→郡山駅(東北新幹線)→岩手県盛岡駅(盛岡市観光)→新花巻駅→花巻温泉 佳松園泊
盛岡市を歩いて観光しました。(約4時間) 宮澤賢治と石川啄木の色々な足跡が見れました。しかし、歩道は凍ってツルツルでとても怖い思いで歩きました。
盛岡駅を出発し少し歩くと北上川に出ました。橋の上から北上川と岩手山がとても綺麗に見れました。
次に非常に手づくり感のある材木町と言う商店街に出ました。ちょっと入ってみようと思うようなユニークなお店が沢山ありました。
歩道にさりげなく「宮澤賢治」の像が有りました。
次に岩手大学に行きました。この大学の中にはわが国初の高等農林学校として明治35年に開校した旧盛岡高等農林学校が有りました。宮沢賢治もこの学校で学びました。また、旧盛岡中学校の同窓生(先輩)である「石川啄木」の記念井戸等もあります。
その当時の「門番所」がそのまま残っています。(国指定文化財)
宮澤賢治の資料館「宮澤賢治センター」同窓会が100周年記念行事の時100年館と名付けました。
「石川啄木」が節子さんと新婚を過ごした家
結局、約4時間歩きました。温度は0度でした。盛岡はとても落ち着いた良い町でした。昼は2時前に「盛岡冷麺」を食べました。広島で食べる「韓国冷麺」とよく似ていました。辛みが利いてとても美味しかったです。
新花巻駅から宮澤賢治資料館に行きました。駅前の地図で見るととても近そうに見えましたので歩いていくことにしましたが、歩いてみるととんでもない距離が有りました。それに資料館は山の上にあり大変難儀をして登りました。
有名な「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の説で有名な建物のある羅須地人協会跡の行きました。花巻農林高校の敷地内にあり研修所を併設していました。
宿泊は「花巻温泉 佳松園」の泊まりました。今回の旅行でここの湯が1番良かったと思います。
東北旅行1日目
1月3日から妻と二人で何十年か振りの旅行をして来ました。年末に正月に近くの温泉にでも行こうかと話をしていました。色々計画を練っている内に、せっかく行ける日程が有るのなら、東北の風評被害も含めた被災地に行って、お金を使おうという事と、寒い時に寒いところに行こうという、私のへそ曲がりの考え方で決めました。
1日目(1月3日)
広島空港→羽田→東京駅(東北新幹線)→福島県郡山市(磐越西線)→会津若松→磐梯熱海温泉(泊)
白虎隊の会津若松に行きました。風評被害で観光客が激減していると報道していました。着いたのが3時ごろになりましたのでタクシーで白虎隊の最期の地である「飯盛山」と鶴ヶ城(若松城)に行きました。
【飯盛山】
白虎隊19名の像が祭られている。
白虎隊19名のお墓
白虎隊
幕末期、会津藩の軍制で数え16?17才の会津藩士子弟で編成された組織。慶応4年旧暦8月22日、藩主松平容保の近衛兵として滝沢本陣に出陣した白虎士中二番隊42名は戸ノ口原に迎え撃つも、西軍の猛攻に敗走し、20名が飯盛山にたどり着きました。ここで目にしたのは砲煙に包まれた城下でした。少年たちは城が陥落したものと思い「主君に殉じよう」と全員が自らの命を絶ったのでした。寒さとひもじさとで生きる気力を失い、少年兵の力では足手まといになると考え、自決を決めたのかもしれません。ひとり生き残った飯沼貞吉によって白虎隊の物語が後世に伝えられました。飯盛山の中腹にある墓地にはここで切腹した十九士の墓が正面に、右手には戸ノ口原などで戦死した少年たちの墓が立ち並んでいます。
【鶴ヶ城(若松城)】
鶴ヶ城(若松城)
室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。お城といっても当時は天守閣はなく、館程度でした。その後、伊達政宗をはさんで蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守閣を築きました。黒壁で織田信長の居城、安土城のようだったともいわれています。江戸時代に入り、地震で被害を受けて再建した天守閣は現在と同じ白壁で五層でした。幕末の戊辰戦争では西軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられましたが、明治政府の命令で取り壊され、現在の天守閣は昭和40年(1965)に再建されたものです。内部は郷土博物館になっています。五層からは会津若松市街地や会津盆地、磐梯山が一望できます。
非常に綺麗なお城でした。城内の資料館では若松城に統一されていました。昭和9年に、国の史跡(しせき)として指定された時「若松城跡」で指定されたため、公的機関(こうてききかん)を中心に「若松城」と呼ぶことが多いようです。今から約400年前に会津のお殿様だった蒲生氏郷公(がもううじさとこう)が会津のお城を「鶴ヶ城(つるがじょう)」と名づけたから呼ばれています。なぜ、鶴ヶ城となづけたのかは、いろいろな説がありますが、それからずっと「鶴ヶ城」と呼ばれ親しまれています。
夕方、磐梯熱海温泉「四季彩 一力」に泊まりました。
庭の綺麗な温泉でした。