市長の休暇・出張 2010:08:19:06:51:19
今朝(8月19日)の5:30AMに気温が30,1℃・湿度58%でした。お盆を過ぎてまた暑くなりました。いつまで続くのでしょうか?
広島市の市長さんは現在、夏季休暇を取っておられます。(8月11日ー8月19日・・土日を入れると9日間)
*8月20日(金)ー21日(土)(1泊2日)中国・寧波(ニンボー)市への観光・経済交流代表団長としていかれます。
目 的
今年7月1日から実施された中国人訪日観光査証の緩和に伴い、中国からの観光客の増大が見込まれており、広島地域に多くの観光客を受け入れるとともに、経済成長著しい中国との経済交流を通じて、広島経済の活性化を図ることは喫緊の課題となっている。
このため、広島空港から毎日直行便が出ている上海空港から陸路で2時間という距離にある中国・寧波市と観光・経済を中心に交流するため、代表団を派遣し広島市及びその周辺地域の観光や物産等の魅力をアピールする。
*8月31日にはフィリッピンで「マグサイサイ賞」の表彰式があります。前後2日か3日はフィリピンへ行かれると思います。
(マグサイサイ賞は正式名称をラモン・マグサイサイ賞 (Ramon Magsaysay Award) といい、フィリピン大統領ラモン・マグサイサイを記念して創設された賞である。毎年アジア地域で社会貢献などに傑出した功績を果たした個人や団体に対し、マニラ市のラモン・マグサイサイ賞財団により贈られ、「アジアのノーベル賞」とも呼ばれる。)
*9月3日から9月12日まではモスクワ・ボルゴグラード方面に行かれます。
広島市の姉妹都市であり平和市長会議副会長都市でもあるボルゴグラード市を訪問し、「ボルゴグラード市の日」記念行事に出席するほか、両市の今後の協力及び平和市長会議の今後の活動について協議する。加えて、近隣都市市長に対し平和市長会議への加盟を要請する。また、首都モスクワ市等を訪問し、ロシアでの今後の平和市長会議の活動について協議するとともに、近隣未加盟都市へ平和市長会議への加盟を呼びかける。さらに、政府関係者に面会し、2020年までの核兵器廃絶に向けた協力を要請する。
日 付 主 な 用 務 用務地
9月3日(金) 12:00成田空港発 モスクワ経由 23:55ボルゴグラード着
9月4日(土) ボルゴグラード市の日関連行事 秋葉市長による講演 ボルゴグラード
9月5日(日) ボルゴグラード市の日関連行事
平和市長会議に関するボルゴグラード市長との協議
近隣市長への加盟要請 ボルゴグラード
9月6日(月) 近隣市長への加盟要請 ボルゴグラード
9月7日(火) モスクワに移動 モスクワ市長との協議
政府関係者への要請活動
近隣市長への加盟要請 モスクワ
9月8日(水) 政府関係者への要請活動 近隣市長への加盟要請 モスクワ
9月9日(木) サンクトペテルブルグへ移動 サンクトペテルブルグ
9月10日(金) サンクトペテルブルグ市長との協議
近隣市長への加盟要請 サンクトペテルブルグ
9月11日(土) 近隣市長への加盟要請 モスクワへ移動 19:40モスクワ発
9月12日(日) 15:25成田空港着 広島着
*9月14日からは議会が始まります。(9月14日ー9月28日)
すごいスケジュールです。お体は大丈夫でしょうか?モスクワ・ボルゴグラードの出張については3月議会で否決しました。しかし、再議で復活しました。多くの難問を抱える広島市の内政は大丈夫でしょうか。8月後半から9月の半ばまで殆ど広島におられません。何か、市長のやりたい放題になっています。これも多選の弊害が出てきていると思います。年々出張回数が増えています。今年度はまだまだ増えるのではないでしょうか。
海を渡る被爆ピアノ 2010:08:18:06:55:20
昨日(8月17日)矢川光則著「海を渡る被爆ピアノ」の出版記念祝賀会が6:30PMよりANAクラウンホテルで開催されました。
矢川光則御夫妻
矢川光則さんは、1952年(昭和27年)生まれで現在58歳です。広島市安佐南区沼田町伴(上奥畑)に在住しておられ、伴小学校・伴中学校の6歳下の同窓生です。
基町高等学校を卒業して、ピアノの調律師となり、1993年(平成5年)ヤガワ楽器調律センターを設立され、1995年(平成7年)矢川ピアノ工房を奥畑の自宅裏に設立されています。
1996年(平成8年)から環境保護の一貫として、不要になったピアノを引き取り修理再生してピアノの無い施設や海外に贈る活動を始められました。現在ではピアノ贈呈数が115台となって関係者から喜ばれておられます。その活動に対し広島市民表彰(市民賞)を受けておられます。
2001年(平成13年)から、8月6日「アオギリ平和コンサート」を平和公園で沼田鈴子さん(原爆の語り部)を応援するため「原爆を乗り越えたピアノ」を使って合同コンサートを開かれました。そのコンサートは現在まで続いています。
2005年(平成17年)7月13日ミサコさんと出会います。78歳のミサコさんが持っている被爆したピアノをきちんと音が出るようにして欲しいと言う依頼を受けます。そのピアノは17歳のミサコさんと一緒に被爆したピアノでした。ピアノの表面には、ガラスの破片が突き刺さったような傷、爆風によって出来たヘコミ、擦り傷が沢山ありました。ピアノは戦前に腕の良い職人によって手作りされた貴重なものでした。
このピアノをミサコさんに御願いして引き取り、ミサコさんの被爆体験と被爆ピアノの物語を多くの人に伝えようと、このピアノを使った演奏会を開くことを思いつき、現在まで続けておられます。沖縄から北海道まで、日本全国で開かれ5年間で384回も開かれています。
ミサコの被爆ピアノ
この活動を矢川さんは「平和の種をまく」と表現されています。日本全国の子供達、修学旅行に来て演奏を聴いた子供達、全国に平和の芽が出ています。矢川さんは奥畑の素晴らしい大自然の中ですくすくと育ち、飾らないぼくとつな人柄です。決して自分のパーフォーマンスで平和を語っておられません。 これこそ地に足の着いた地道な平和活動だと思います。
そのピアノが海を渡ってニューヨークに行きます。2001年(平成13年)9月11日貿易センタービルを襲った同時多発テロの慰霊祭に被爆ピアノの演奏会が開かれることになりました。矢川さんは「世界が核兵器廃絶に向けて動き出した今、被爆ピアノの音色でヒロシマの心を世界に広めたい」と言っておられます。
13年前に亡くなった矢川さんのお父さんは消防士でした。市役所の近くの消防署で被爆されました。被爆により体調を壊され闘病生活が長く続いたそうです。そのお父さんと同時多発テロの時の消防士がダブって見えるのだそうです。どうしてもニューヨークで演奏会が開きたいと言う思いが強くなり、オバマ大統領に4度も手紙を書かれたそうです。ようやく今年被爆ピアノが海を渡ることになりました。8月15日空路被爆ピアノが現地に発送されました。コンサートは同時多発テロが起きた9月11日を挟んで9日ー13日マンハッタン島などで8回開かれます。日本・米国両国のピアニストが演奏をします。募金も行い遺族支援などの目的で現地の消防署に寄付するそうです。
矢川光則著「海を渡る被爆ピアノ」