海を渡る被爆ピアノ 2010:08:18:06:55:20

2010年8月18日

 昨日(8月17日)矢川光則著「海を渡る被爆ピアノ」の出版記念祝賀会が6:30PMよりANAクラウンホテルで開催されました。

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                     矢川光則御夫妻

 矢川光則さんは、1952年(昭和27年)生まれで現在58歳です。広島市安佐南区沼田町伴(上奥畑)に在住しておられ、伴小学校・伴中学校の6歳下の同窓生です。

 基町高等学校を卒業して、ピアノの調律師となり、1993年(平成5年)ヤガワ楽器調律センターを設立され、1995年(平成7年)矢川ピアノ工房を奥畑の自宅裏に設立されています。

 1996年(平成8年)から環境保護の一貫として、不要になったピアノを引き取り修理再生してピアノの無い施設や海外に贈る活動を始められました。現在ではピアノ贈呈数が115台となって関係者から喜ばれておられます。その活動に対し広島市民表彰(市民賞)を受けておられます。

 2001年(平成13年)から、8月6日「アオギリ平和コンサート」を平和公園で沼田鈴子さん(原爆の語り部)を応援するため「原爆を乗り越えたピアノ」を使って合同コンサートを開かれました。そのコンサートは現在まで続いています。

 2005年(平成17年)7月13日ミサコさんと出会います。78歳のミサコさんが持っている被爆したピアノをきちんと音が出るようにして欲しいと言う依頼を受けます。そのピアノは17歳のミサコさんと一緒に被爆したピアノでした。ピアノの表面には、ガラスの破片が突き刺さったような傷、爆風によって出来たヘコミ、擦り傷が沢山ありました。ピアノは戦前に腕の良い職人によって手作りされた貴重なものでした。

 このピアノをミサコさんに御願いして引き取り、ミサコさんの被爆体験と被爆ピアノの物語を多くの人に伝えようと、このピアノを使った演奏会を開くことを思いつき、現在まで続けておられます。沖縄から北海道まで、日本全国で開かれ5年間で384回も開かれています。

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                        ミサコの被爆ピアノ

 この活動を矢川さんは「平和の種をまく」と表現されています。日本全国の子供達、修学旅行に来て演奏を聴いた子供達、全国に平和の芽が出ています。矢川さんは奥畑の素晴らしい大自然の中ですくすくと育ち、飾らないぼくとつな人柄です。決して自分のパーフォーマンスで平和を語っておられません。 これこそ地に足の着いた地道な平和活動だと思います。

 そのピアノが海を渡ってニューヨークに行きます。2001年(平成13年)9月11日貿易センタービルを襲った同時多発テロの慰霊祭に被爆ピアノの演奏会が開かれることになりました。矢川さんは「世界が核兵器廃絶に向けて動き出した今、被爆ピアノの音色でヒロシマの心を世界に広めたい」と言っておられます。

 13年前に亡くなった矢川さんのお父さんは消防士でした。市役所の近くの消防署で被爆されました。被爆により体調を壊され闘病生活が長く続いたそうです。そのお父さんと同時多発テロの時の消防士がダブって見えるのだそうです。どうしてもニューヨークで演奏会が開きたいと言う思いが強くなり、オバマ大統領に4度も手紙を書かれたそうです。ようやく今年被爆ピアノが海を渡ることになりました。8月15日空路被爆ピアノが現地に発送されました。コンサートは同時多発テロが起きた9月11日を挟んで9日ー13日マンハッタン島などで8回開かれます。日本・米国両国のピアニストが演奏をします。募金も行い遺族支援などの目的で現地の消防署に寄付するそうです。

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                 矢川光則著「海を渡る被爆ピアノ」 

 



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