東北旅行1日目 2012:01:07:07:26:24
1月3日から妻と二人で何十年か振りの旅行をして来ました。年末に正月に近くの温泉にでも行こうかと話をしていました。色々計画を練っている内に、せっかく行ける日程が有るのなら、東北の風評被害も含めた被災地に行って、お金を使おうという事と、寒い時に寒いところに行こうという、私のへそ曲がりの考え方で決めました。
1日目(1月3日)
広島空港→羽田→東京駅(東北新幹線)→福島県郡山市(磐越西線)→会津若松→磐梯熱海温泉(泊)
白虎隊の会津若松に行きました。風評被害で観光客が激減していると報道していました。着いたのが3時ごろになりましたのでタクシーで白虎隊の最期の地である「飯盛山」と鶴ヶ城(若松城)に行きました。
【飯盛山】
白虎隊19名の像が祭られている。
白虎隊19名のお墓
白虎隊
幕末期、会津藩の軍制で数え16?17才の会津藩士子弟で編成された組織。慶応4年旧暦8月22日、藩主松平容保の近衛兵として滝沢本陣に出陣した白虎士中二番隊42名は戸ノ口原に迎え撃つも、西軍の猛攻に敗走し、20名が飯盛山にたどり着きました。ここで目にしたのは砲煙に包まれた城下でした。少年たちは城が陥落したものと思い「主君に殉じよう」と全員が自らの命を絶ったのでした。寒さとひもじさとで生きる気力を失い、少年兵の力では足手まといになると考え、自決を決めたのかもしれません。ひとり生き残った飯沼貞吉によって白虎隊の物語が後世に伝えられました。飯盛山の中腹にある墓地にはここで切腹した十九士の墓が正面に、右手には戸ノ口原などで戦死した少年たちの墓が立ち並んでいます。
【鶴ヶ城(若松城)】
鶴ヶ城(若松城)
室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。お城といっても当時は天守閣はなく、館程度でした。その後、伊達政宗をはさんで蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守閣を築きました。黒壁で織田信長の居城、安土城のようだったともいわれています。江戸時代に入り、地震で被害を受けて再建した天守閣は現在と同じ白壁で五層でした。幕末の戊辰戦争では西軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられましたが、明治政府の命令で取り壊され、現在の天守閣は昭和40年(1965)に再建されたものです。内部は郷土博物館になっています。五層からは会津若松市街地や会津盆地、磐梯山が一望できます。
非常に綺麗なお城でした。城内の資料館では若松城に統一されていました。昭和9年に、国の史跡(しせき)として指定された時「若松城跡」で指定されたため、公的機関(こうてききかん)を中心に「若松城」と呼ぶことが多いようです。今から約400年前に会津のお殿様だった蒲生氏郷公(がもううじさとこう)が会津のお城を「鶴ヶ城(つるがじょう)」と名づけたから呼ばれています。なぜ、鶴ヶ城となづけたのかは、いろいろな説がありますが、それからずっと「鶴ヶ城」と呼ばれ親しまれています。
夕方、磐梯熱海温泉「四季彩 一力」に泊まりました。
庭の綺麗な温泉でした。
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