2011年6月
3か月経過
今日(6月11日)で、東日本大震災から3か月が経過します。警察庁の10日現在のまとめによると、行方不明者は8095人。同庁は派遣部隊の2000人体制を維持し、岩手、宮城、福島3県で捜索を続けます。ただ、新たに遺体が発見された場所の周辺で改めて重点捜索するなど、的を絞った活動に切り替えつつあります。総務省消防庁は3県での緊急消防援助隊の活動を終了します。自衛隊は8日で福島県での捜索を終え、岩手、宮城の6市町で活動します。福島では遺体漂着の確認などの作業は続ける。死者は1万5405人。岩手、宮城、福島3県では13%の身元が分かっていません。
建物被害は▽全壊11万1153戸▽半壊7万5738戸▽一部破損32万9089戸。環境省の3日現在の推計で、沿岸部のがれきは岩手499万トン、宮城1595万トン、福島288万トンに上るが、仮置き場搬入済みはそれぞれ、154万トン(31%)、238万トン(15%)、46万トン(16%)にとどまっています。
一方、国土交通省によると、10日現在で完成した仮設住宅は岩手8257戸、宮城1万1975戸、福島7748戸。それぞれ必要数の59%、52%、51%となっています。
行方不明者については、民法が定める失踪宣告は死亡を認定するまでに行方不明になってから7年、災害時は特例で短縮されますが、それでも1年かかります。生活再建のために特例が考えられているようです。
東日本大震災後3カ月経過した行方不明者は、死亡したものと推定する特例規定が設けられました
労災保険の遺族補償給付等の請求においては、民法第30条第2項の規定により、行方不明となってから1年後に失踪宣言が行われるまでは死亡が確定しないことになっていましたが、東日本大震災(以下「大震災」という。)により行方不明者となられた方の残された遺族の生活再建に資するために下記特例規定が設けられ、大震災による災害により3カ月間生死がわからない場合などについては、大震災の発生日である平成23年3月11日にその方が死亡したものとして推定されることになりました。
従って、仕事中又は通勤途上において行方不明者となられた労働者のご遺族の方は、平成23年6月11日以降については、労働者の方が平成23年3月11日に死亡したものとして遺族補償などの請求手続きを行うことができます。
記
1 特例規定の創設
次の場合は、大震災発生日の平成23年3月11日に死亡したものと推定される規定が設けられました。
?大震災による災害により行方不明となった者の生死が3カ月間わからない場合
?被災者の死亡が大震災の発生から3カ月以内に明らかとなり、かつ、その者の死亡の時期がわからない場合
2 特例の対象となる給付
(1) 遺族補償給付
(2) 葬祭料
(3) 遺族給付
(4) 葬祭給付
(5) 障害補償年金差額一時金
(6) 障害年金差額一時金
(7) 未支給の保険給付
(厚生労働省福島労働局発表)
政府の対応が遅いと盛んに言われています。組織は官僚機構しかありません。政府が言葉だけの政府主導を繰り返さず、いかに官僚機構を使いこなすかが大事なポイントだと思います。阪神淡路大地震の時は、村山総理大臣が「私は良く解らないから、皆さんしっかりやってください。責任は私がとります」と言われ、早い対応が取れたようです。組織として大事なことではないでしょうか。
連敗ストップ
昨日(6月9日)、ようやくカープが長いトンネルを抜け、連敗をストップしました。(10連敗)連敗が始まったのが、同じ西武戦です。投手も涌井でした。その涌井を打ち破っての連敗ストップでした。何か因縁めいています。
ケーブルテレビでの放映もありませんでした。今朝新聞を見て大喜びの母でした。これで母の溜息を聞かなくてすみそうです。母はこの6月21日で90歳になります。スポーツ番組が好きで、カープ戦は勝っても負けても始めから終わりまですべて見ています。ここのところの連敗で、「打てんのー」と溜息ばかりついていました。母の健康のためにもカープには勝って欲しいものです。
理想的な点の取り方ですね
【投手】
(広)バリントン、青木、上野、サファテ?石原
(西)涌井、松永、野上、江草?銀仁朗
(勝)バリントン9試合5勝2敗
(敗)涌井8試合4勝3敗
【本塁打】
(広)松山1号2ラン(6回、涌井)
(西)中村14号ソロ(4回、バリントン)
【戦評】
広島が連敗を10で止めた。二回に石原の適時打で先制。四回に2点を加え、六回には松山のプロ初本塁打でリードを広げた。バリントンはスライダーが切れ、7回1失点で5勝目。西武は4連敗。涌井が制球に苦しみ、失点を重ねた。
(インターネットサンスポ.COM引用)
おひさま
現在、NHKの朝ドラ「おひさま」に、はまっています。戦前、戦中、戦後、と昭和の動乱期を一人の女性を通して描いています。動乱の時期でありながら、日本人の持っている伝統・文化・絆・思やりの気持ち等見事に描いています。親子関係・夫婦関係・友人関係と考えさせられる内容が有ります。
私の母は大正10年(1921年)生まれです。このドラマのヒロイン須藤陽子は大正11年(1922年)、東京都に生まれました。また、母は昭和15年高等師範を出て国民学校の教師になりました。須藤陽子は昭和16年(1941年)に国民学校の教師になりました。非常に母の人生と似ています。
その時、父は同じ学校の代用教員として勤めていました。母が出来ないことを父が全て補っていたそうです。しかし、高等師範出の母と代用教員の父の給料は母の方が上だったそうです。父が大変悔しがっていたそうです。父は二男で長男との差別化を大変ひがんでいました。その上この給料です。ひがみの塊状況になっていたそうです。そこから父の人生は始まりました。組合運動に没頭する切っ掛けになったようです。戦後、父が復員してきて結婚をしました。私の親の昭和の生活と類似している設定です。
現在は、戦中を放映していますが、戦前では、親子の会話がとても綺麗でした。妻と、子供に親に対して敬語を使うように育てればよかったと話しています。昭和の素晴らしい状況と心が見事に描かれています。現在は戦中の悲しい別れを、それぞれの人間模様を入れながら、淡々と描いています。妻は毎日、涙しながら見ています。脚本が素晴らしく出演者もそれぞれ素晴らしい演技でドラマを支えています。久しぶりに楽しみにするドラマを見ています。
NHK連続テレビ小説「おひさま」
(月?土曜、前8・00)の初回視聴率が関東で18・4%、関西で15・6%だったことが6月5日、ビデオリサーチの調べで分かった。
関東、関西ともに前作「てっぱん」の初回(18・2%、13・1%)を上回り、関東の数字は過去5年9作品の中で最高の数字でした。
5月30日?6月4日の第9週は初めて全日平均19%以上を記録、同週の平均視聴率は19.3%(ビデオリサーチのデータを基に独自集計)でした。
(毎日新聞デジタル)
戦前
病気の母との最期を家族で過ごすため、長野県安曇野にやって来た少女・陽子は母と見たそば畑一面の白い花と、「おひさまのようにいつも笑って世界を明るく照らす」という約束を胸に少女時代を過ごします。
やがて世の中が戦争へと向かう時代に女学校へ。
生涯の友情を誓う二人の親友とともに、父と兄に守られながら明るく青春時代を駆け抜けます。
戦中
昭和16年、尋常小学校が国民学校となったこの年、陽子は念願の教師になります。子どもたちの笑顔を守りたいと奮闘する中、陽子を取り巻く人々にもそれぞれの転機が訪れます。
そして、陽子は松本市の老舗そば屋にお見合いにより嫁ぎ、戦地へ赴いた夫のいない婚家で、教師を続けながら義父母との生活を始めます。「家の中では笑って暮らしましょう」とたくましい姑とのかかわり合いに、陽子は忘れかけていた生きる喜びを思い出します。
姑が大切にする家族や近所の人たちとのつながり、そしてそば。守るもののある心強さを陽子は受け継いでいきます。
戦後
ようやく復員した夫との初めての生活が始まります。ぎこちなく、やがて互いを思いやるあたたかな家庭をはぐくみながら、母となった喜びをかみしめます。
教師を続け、夫唱婦随で家業と子育てに泣き笑いの日々。そして混乱した世の中、孤独と貧しさに生きる希望を失ったかつての教え子たちの消息を知り、その笑顔を取り戻すため、陽子は第2のステージを歩き出します。
夫や姑に教えられたそばの温かな味。畑を取り戻し、友情に支えられ、教え子たちと心を込めてそばを作ります。まごころの味を届ける女たちの小さなそば屋はやがて人々を明るく照らす希望の場所に変わっていきます
(NHKホームページ引用)