財団法人 北方文化博物館 2010:06:03:07:26:42
長い間ブログを休みました。中国旅行から帰り29日(土)30日(日)と家に居ましたが、朝早くから夜遅くまで地域の行事等があり書く時間がありませんでした。31日(月)から政令指定都市議員連絡協議会の総会があり新潟市に行っていました。2010年(平成22年)4月1日現在、全国に19市あります。
総会には「石原伸晃(党組織運動本部長)」が記念講演をされました。
6月1日(月)朝の散歩では信濃川の河口の新潟観光港まで歩きました。佐渡汽船が出航する新潟港では、北朝鮮のマンギョンボンゴウの停泊場所も見ました。
新潟を出発する時間が午後でしたので少し観光をしました。新潟市は信濃川と阿賀野川と言う大きな川があり大変美しい市でした。
新潟市
面積 726.10km? ・ 総人口 811,789人(推計人口、2010年5月1日)
市の木 ヤナギ
市の花 チューリップ
概要
市役所方面から古町を望む2005年の広域合併によって人口が80万人を突破しました。 2007年4月1日に、本州日本海側初の政令指定都市に移行しました。
また広域合併によって郊外に広大な農地を抱え、水田面積が日本一となっており、「田園型政令指定都市」を標榜しています。
市の中心部にあたる信濃川河口部には、古くから港が開かれ、幕末の日米修好通商条約開港五港の1つとなりました。現在でも水陸の交通の要衝です。
1950年代まで、信濃川左岸の新潟島中心部には堀が張り巡らされ、それに沿って柳が植えられていました。そのため、「水の都」「柳都(りゅうと)」などの異名を持っています。
10時AM過ぎから豪農伊藤家の「財団法人北方文化博物館」を見学しました。
財団法人 北方文化博物館
越後の蒲原平野には信濃川と阿賀野川の大河があり、阿賀野川沿いの横越町(現新潟市)にある戸数三百余りの集落を「沢海(そうみ)」といいいます。
ここ沢海の歴史は古く江戸時代の初期、慶長15年(1610年)から77年間は沢海城という城があり、
11,000石のささやかな城下町として栄えていたと伝えられています。沢海城の築城以前は囲いの堤もなく、洪水の際には一面が水に押し流され、水が引き落ちても窪地に水がたまり、沢のようになるので「沢海」と名付けられたと言われています。
その後、沢海は天領となり、代官所、続いて旗本小浜の知行所が置かれていましたが、明治2年(1870年)に藩籍奉還となり、武家による社会は終わりを告げました。
このような歴史の中、江戸時代中期、農から身を起こし、やがて豪農への道を歩み、代を重ねて巨万の富を築いていった一族が伊藤家です。全盛期には、1市4郡60数ヶ町村に田畑1,370町歩(1,372ha)を所有し、越後随一の大地主として、その名は県下に鳴り響いていましたが、農地解放により広大な農地は伊藤家の所有を離れることになります。
この伊藤家の屋敷と住宅が、現在の北方文化博物館で、別名「豪農の館」と呼ばれています。
現在では、かつてのお城も代官所も、小浜時代の知行所も跡形もなく、ただ、かつて豪農の館、伊藤家だけが、昔の面影そのままに、数々の歴史を秘めて残っています。
昭和20年(1945年)8月の終戦直後、伊藤邸土蔵内に旧日本軍の隠匿物資があるという情報で、
進駐軍のライト中尉が調査に来ました。調査で会話を交わすうちに、偶然にも七代文吉がライト中尉のペンシルバニア大学の先輩であることがわかり、それ以後、ライト中尉は伊藤家(北方文化博物館)に絶大な支援を与えてくれることになります。ライト中尉は北方文化博物館草分け期の素晴らしい後援者となりました。
この後の昭和28年(1953年)には作庭に着手し昭和33年(1958年)に完成、伊藤家の屋敷は徐々に博物館としての完成度を高めてゆきました。
現在、伊藤家は八代目。宝暦(1751?63年)の時代から平成に至る250年余の歴史をもつ伊藤家の遺構に、今日も全国から多くの人々が訪れています。
館内に掲げられている扁額「君子居中庸」「倹以養徳」は伊藤家当主の理念、家風を表し、また伊藤家の小作人に対する心遣いが感じられる、「田地買うなら精々悪田を選び、悪田を美田にして小作に返すべし」という家訓は現在も息づいています。
中国旅行記 1 2010:05:29:08:04:09
5月23日14時30分広島空港を飛び立ち、北京に(大連経由)17時45分(時差1時間)到着しました。空港に降りて、暑さに(32℃)まいりました。
北京は戸籍人口1,755万人(2009年末)あまりで、構成は96%が漢民族で、残り4%は55の少数民族で構成されています。
ガイドが、「中国は何処の民族が多いですか」と言う質問に、「韓民族でしょう」と答えると「違います。不満足です。(不満族)」と言っていました。笑うに笑えないブラックジョークで中国の現実を垣間見たような気がしました。市内は街づくりと建設ラッシュで活気に溢れています。日本のバブル期全盛の時代を思い浮かべました
5月24日、観光の1日目です。ホテルを8時30分に出発し2時間かけて万里の長城に行きました。北京市内から約2時間かけて到着しました。中国各地からの観光客で溢れていました。
二山登りましたが急な坂・階段で息が切れるくらい大変でした。その時代にこれだけのものを建設したという現実に感動しました。
しかし、今回の中国旅行全体の感想ですが、中国人の辺り構わず大きな声での会話と、人を押しのけての行動には閉口しました。
万里の長城
東端の遼寧省虎山から今まで東端とされていた河北省山海関に(以前はここから6,352kmとされていた)至り、西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8km(2009年4月18日、中華人民共和国国家文物局発表による)。
一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されていますが、現存している「万里の長城」の大部分は明代に作られたものです。
現在、中華人民共和国政府は重要な歴史的文化財として保護し、世界遺産にも登録されています。世界有数の観光名所としても名高いですが、地元住民が家の材料にしたり、観光客へ販売するなどの目的で長城の煉瓦を持ち去り、破壊が進んでいます。
また、長城がダム工事により一部沈んだり、砂漠化により沈んだり、道路建設により分断もされていまする。長城周辺の甘粛省や陝西省は、中華人民共和国でもっとも貧しい地域の1つで、当局は対策に頭を悩ませています。
2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告がされました。
2009年4月18日、中華人民共和国国家文物局は総延長は、6,352kmから8,851.8kmであると修正発表しました。
毎日新聞によるとのろし台5723カ所も確認され、煉瓦などでできた人工壁6259.6kmに加え、くぼみや塹壕部分の359.7km、崖などの険しい地形2232.5kmが含まれたことから延びたとみられるとしています。
明の十三陵
明の時代、第3代の永楽帝以降の皇帝13人のお墓のことです。明はもともと南京が首都で、永楽帝が北京に首都を移しました。
この定陵は第14代万暦帝のお墓です。この万暦帝というのは日本でいえばちょうど豊臣秀吉と同時期で、秀吉の朝鮮出兵に対して朝鮮へ援軍を送ったことと、自分のこの墓を巨額の費用を投じて作ったことが明の滅亡を招いたと言われています。また、ここの特徴は地下宮殿で、お墓を発掘して一般公開していました。
鳥の巣
北京オリンピックのメインスタジアムでです。
設計者は、スイスの建築家ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロンで、その独特の形状から、愛称は「鳥の巣(??・Bird's Nest)」です。大きさは330m×220mで高さは69.2m。総工費は35億元。最大収容予定人数は91,000人で、オリンピック終了後は施設の改修が行われ、座席数は8万人にまで減らされました。
ウォーターキューブ(中国語:水立方)
同じく愛称「鳥の巣」をもつ北京国家体育場の隣に建っています。
2008年の北京オリンピックでは水泳競技の会場となりました。2003年4月着工、2008年1月28日竣工。夜になるとブルーにライトアップしてとても綺麗だそうです。
鳥の巣もウオーターキューブも考えられないほどの広い敷地の中に造ってありスケールの大きさにびっくりしました。