介護 2011:04:20:06:56:44
3月7日の朝早く母が倒れました。夜が明けてかかりつけのホームドクターにお会いして話をするとそれは入院をしたほうが良いということになり、広島市民病院へベットタクシーで救急外来へ搬送しました。母はほとんど意識がなく病院のストレッチャーに横たわっていました。検査に3時間くらいかかり結果が出ました。思わぬ病気が沢山出てきてびっくりしました。
今回の急変は、1週間前くらいからヘルペス(帯状疱疹)にかかり、その薬が強かったので、元々、甲状腺機能障害が有り、甲状腺がほとんど機能しなくなった為ではないかという結論でした。即入院です。
最初は、意識のない状態が続きました。トイレにも行けないので尿管を付け寝たきりとなり、点滴でもっていました。2?3日で意識は戻りましたが、しゃべることが、何を言っているのか解りませんでした。食事も自分では取れません。妻がつきっきりの状態になりました。朝は選挙前の後援会活動中だったので妻の妹に頼みました。大変お世話になりました。また、弟の義妹にも夕方お世話になりました。
10日経過したぐらいから、少しづつ自分で動けるようになりました(ベットの中で足が動く・少し寝返りが打てる)が、食事のとき口とスプーンの距離感が解らず本人がイライラしている状況でした。
少し動けるようになり夜、自分でトイレに行こうとし頭を打ち看護士さんに迷惑をかけたようです。その後、テントウムシを付けられました。(ベットとか体を紐で結び離れようとすると、テントウムシの形をした器具が離れ、看護士事務所に警報が鳴る)入院をするまで自分の生活は、全て出来ていた自分の意識とのギャップが相当有るようです。
4月1日の選挙戦が始まるまでは毎日病院へ顔を出しましたが、状況はあまり変わりませんでした。
選挙戦が終わり当選させていただき病院へ行くと嬉しそうな顔で「おめでとう」と言った母の顔は忘れられません。驚くことに歩行器で歩けるようになっていました。4月6日には市民病院で投票をしたそうです。(病院投票は約40人だったそうです)
4月12日に退院しました。家に帰れて大変うれしそうな顔をしました。「やっぱり家が良い」と盛んに言っていました。家の中を歩行器で行き来しています。食事は自分で取れるようになりました。居間のこたつに座って、テレビを見たり寝転んでいたりしています。しかし、自分の思うように動けないので相当ストレスが溜まっているようです。家に帰り3度倒れました。倒れた後、中々、起き上がれないので癇癪を起こし、「はあ死にたい」と言っています。
しかし、行動は意欲的です。リハビリをするのに「病院へ行くか、デイサービスに来てもらうかどちらにしようか」と聞くと「絶対に嫌だ、自分でやる」と言い張っています。意欲の成果として、少しづつ生活が元のように戻っています。昨日は、歩行器を使わないで、杖をついて自分の部屋を往復しました。「1日3回はしたほうが良いね」と言っておくと昨日は3回したそうです。
毎日の生活には、妻か私かどちらかが家に居なければならない生活が当分続きそうです。私の母なので妻には気を遣います。気持ちよくやってくれているので感謝するしかありません。介護生活に入って思うことは、この生活に入らなければ見えないことが沢山あるのだなと感じて、毎日が新たな発見の連続です。
「這えば立て、立てば歩けの、介護心」
ドナルド・キーン 2011:04:19:08:01:54
「ドナルド・キーンさん日本永住へ 国籍取得手続き開始」という記事が4月16日掲載されました。【共同通信】内容は日本文学研究で知られる米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさん(88)が、日本に永住する意思を固め、日本国籍取得の手続きを始めた。キーンさんは周囲に「日本が大好きだから」などと説明し、これまで1年の半分ほどを日本で過ごしてきたが、「行き来するのが体力的につらくなってきた」ため、今月末の講義を最後にコロンビア大学を去り、1月ごろに永住の意思を固めたという。「3月11日の東日本大震災で大変心を痛め、永住への思いがさらに固くなった」と話している。という記事でした。
この時期に日本に永住を決意するドナルド・キーンさんは本物の親日家だと思いました。日本の文化・歴史を研究し、本当の日本の良さを語っておられます。我々日本人よりより日本人的な日本人になられるのではないでしょうか。我々ももっと日本の歴史・文化の誇りと自信を持って良いのではないでしょうか。
ドナルド・ローレンス・キーン(Donald Lawrence Keene, 1922年6月18日 - )
アメリカの日本文学研究者、文芸評論家。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績を残した。称号は東京都北区名誉区民、ケンブリッジ大学、東北大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。
来歴・人物
ニューヨーク市ブルックリンで貿易商の家庭に生まれる。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。両親の離婚により母子家庭に育ち経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級を繰り返し、1938年、16歳でコロンビア大学文学部に入学。同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受ける。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語特に漢字の学習に惹かれるに至る。1940年、厚さに比して安価だったというだけの理由で49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。コロンビア大学にて、1942年に学士号を取得。日米開戦に伴って米海軍日本語学校に入学し、日本語の訓練を積んだのち情報士官として海軍に勤務し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。通訳時代の友人にオーティス・ケーリ(のち同志社大学名誉教授)がいる。
復員後コロンビア大学に戻り、角田柳作のもとで1947年に修士号を取得。同年、ハーヴァード大学に転じ、セルゲイ・エリセーエフの講義を受ける。1948年から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターやアーサー・ウェイリーとも交際。この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。
1953年京都大学大学院に留学。京都市東山区今熊野の下宿にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二とも生涯の友となった。1955年からコロンビア大学助教授、のちに教授を経て、同大学名誉教授となった。
1982年から1992年まで朝日新聞社客員編集委員。1986年には「ドナルド・キーン日本文化センター」を設立した。1999年から「ドナルド・キーン財団」理事長。2006年11月1日源氏物語千年紀のよびかけ人となる。
日本に関する著作は、日本語のものが30点、英語のものもおよそ25点ほど出版されている。近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで研究対象の幅は広く、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として果たした役割も大きい。英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わった。
1976年には、日本語版、英語版それぞれの『日本文学史』の刊行が開始された。近世、近代・現代、古代・中世の三部に大きく分かれる。
クラシック音楽、特にオペラの熱心な愛好家であり、関連する著書にエッセイ集『音盤風刺花伝』『音楽の出会いとよろこび』(音楽之友社刊)がある。
友人であった安部公房は、キーンが明治天皇について書くことを告げると、書けば右翼から脅迫に遭うだろうと忠告した。何年後かに実際書いてみるとどこからも脅迫されず、キーンは逆に意気消沈したという。
主に交流のある作家は三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成、吉田健一、石川淳、安部公房など。かつて大江健三郎とも親しかったが、大江の態度の変化によって疎遠になった。大江から避けられるようになったことについて『私と20世紀のクロニクル』p.223-224では原因不明としている。ただ、大江の縁があって、安部と終生の親友になれた。井上靖文化賞授賞式の際にキーンが出席出来なかった代わりに大江がスピーチに参加した。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)引用