2010年4月
入園式
昨日、10時AMより学校法人 法輪学園「ほうりんこころ認定こども園」の入園式がありました。広島市安佐南区伴南1丁目5番6号に有り、「こころ団地」(世帯数が1100世帯を超えている)の中にあり入園児が非常の多くなって現在500人を超えているそうです。伴南小学校の新入生の2/3は当学園の出身者だそうです。
年 齢 0歳 1歳 2歳 3歳 4歳 5歳
組 数 1 1 1 5 5 5
職員配置数 2 4 5 5 6 6
平成21年度のデーターです。
仏教を中心にすえた幼児教育を行なっておられ、入園式も大変感動的でした。
子どもと保護者で溢れかえるホール
リズム体操(2階まで保護者でいっぱいです)
旧広島市民球場の暫定利用
3月26日の議決で、旧広島市民球場の解体費ついては平成22年度予算から削除できませんでしたが、【旧広島市民球場条例の廃止について(都市活性化局)施行日 平成22年4月1日】の条例を否決し旧広島市民球場管理事務所を残すこと出来ました。これは条例案なので「再議」にかかりませんでした。
市は管理事務所に都市活性化局の都市活性化推進課長を兼務で所長としました。また、課長補佐1名、主事2名を兼務として任命し、嘱託職員を1名を配属しました。
予算も予備費から1,000万円つけました。
昨日(4月9日)都市活性化推進課長・旧市民球場管理事務所所長が当面7月31日まで暫定利用の要項を説明に来ました。我々の思いが第1歩を踏み出しました。
下記が暫定利用の要項です。
旧広島市民球場の暫定利用について
旧広島市民球場の暫定利用について、次のとおり再開することにしましたのでお知らせします。
1 利用期間
平成22年(2010年)5月1日(土)?7月31日(土) ※木曜日(休場日)を除く。
2 申込(受付)開始日
平成22年(2010年)4月17日(土)
※ 平成22年(2010年)6月16日(水)までの利用分について、
4月17日(土)に一斉に行います。
3 申込(受付)方法
(1) 利用希望者は、旧広島市民球場正面玄関ロビーに用意された各日ごとの申込用紙に、午前8時30分までに氏名・団体名・利用時間帯を記入する。
(2) 午前8時30分で締め切り、希望者が複数人の場合は、その場で抽選を行います。
なお、抽選は、5月1日利用分から順次行う予定です。
4 その他
(1) 利用可能時間帯の区分は、従前どおり、午前(9:00?12:00)、
午後(12:30?16:30)及び昼間(9:00?16:30)となります。
(2) 6月18日(金)以降の利用受付は、2カ月前の該当日(該当日が木曜日に当たる場合は,翌日金曜日)から行います。(申込方法は3の(1)のとおりです。)
(3) 詳細については、広島市ホームページ(http://www.city.hiroshima.lg.jp/)で
4月10日(土)から公開します。
【都市活性化局 旧市民球場管理事務所 平成22年(2010年)4月9日(金)】
さようなら キムタク
広島でも人気のあった木村拓也コーチは2010年4月2日の広島市民球場での試合前のシートノック中にくも膜下出血で突然倒れました。意識不明の重体が続き、7日午前3時22分に広島市内の病院で帰らぬ人となりました。37歳でした。(ご冥福を祈ります)
2009年に現役を引退し、今季から巨人軍の1軍コーチに就任し、指導者としてこれからの活躍が期待されていました。
3月2日に日本野球機構(NPB)の新人研修で木村コーチが行った講義が話題になりました。
そのきっかけは埼玉西武ライオンズの大物ルーキー菊池雄星投手がマスコミに、木村コーチの講演を聞いて感銘を受け「内容がすごく心に残っている」と語ったことだそうです。これをスポーツ紙が取り上げ、広がっていきました。
巨人軍公式ホームページには「NPB新人研修 木村拓コーチ講義内容」として10年3月4日付けで掲載しました。
長くなりますが、人生を考える「宝のような言葉」が詰まっていると感じましたので巨人軍のホームページから添付させていただきました。
NPB新人研修 木村拓コーチ講義内容(巨人軍のホームページ)
高校時代は4番を打っていて、捕手でした。19年間プロ野球選手をやって、最後は2番・セカンドになった。そのいきさつを話そうと思います。
1990年のドラフトで、僕は指名されませんでした。当時は6位までに指名されなかった選手は、「ドラフト外」で自由競争でした。僕は高校通算で35本塁打打っていて、宮崎県のお山の大将で、ドラフトで自分の名前が出ないでショックでした。ドラフト外で日本ハムに入団する時に、スカウトから「入ったら横一線だから。プロの世界は自分が頑張って結果を残せば、一軍に上がって大変な給料がもらえる」と言われました。でも入ってみるとちょっと違っていた。
新人のみなさんはキャンプを1か月やって、「これならやれるな」と思った人と、「すごい、ついていけないかも」と思った人がいるでしょう。僕はキャンプ初日にシートノックでボール回しをやった時に、「とんでもない所に来た」と思いました。プロのスピードについていけない。ドラフト外というのもなるほどな、これはすぐにやめて田舎に帰らないと、と思いました。
当時、開幕前に60人という支配下登録の枠がありました。僕は登録されなかった。新聞に任意引退選手と出て、故郷から「2か月でやめるのか」と電話がありました。今の育成選手は、二軍の試合に出られるし、シリウスやフューチャーズがある。僕の時には支配下からもれたら、試合に出られず、ひたすら練習。「何しにプロ野球に入ったんだろう」。
今の育成は、野球をやるチャンスがある。どんどんアピールして頑張ってほしい。
2年目に、一軍にけが人が多く出ました。二軍の野手が一軍に呼ばれて、二軍監督から外野を守るよう言われました。試合に使ってもらえるならと外野手をやり、まず第一歩を踏み出しました。そしてファームで1番を打っていた選手が米国に野球留学し、他はけが人も多く「1番がいないから、お前が打て」とコーチに言われ、何て運に恵まれているんだろうと思いました。そして9月、一軍にけが人が多く、初めて一軍に上がりました。結局、2年目は3本ヒットを打ちました。
3年目は開幕一軍でしたが、ほとんどが守備要員でした。1か月ほどで二軍に落ちて、それ以降は一軍に上がらずでした。
3年目のオフに転機がありました。9月末から12月末の4か月間、ハワイのウインターリーグに参加し、イチロー選手といっしょでした。1歳下のイチロー選手に衝撃を受けました。4か月間同じ部屋で、朝起きたらいない。朝からウエートトレーニングをしていたのです。このウインターリーグでイチロー選手は首位打者を獲りました。自分はこんなんじゃだめだなと思い、イチロー選手が僕の野球人生を変えてくれた一人になり、感謝しています。
4年目は、1年間一軍にいましたが、守備要員でした。しかしやっと「野球選手になれたな」と思っていたのですが、広島にトレードになった。正直「何でおれが」と思いました。
広島は当時、野村、江藤、前田、音、緒方、金本の名選手ぞろい……僕に入り込むすきはなかった。移籍1年目は数試合に出て7打数で安打なし。「これはクビになるな」と思い、「どうやったらここで生きていけるか」と考えました。一軍のレギュラーの中では、セカンドが確か34、35歳のベテランだったので、セカンドをやるしかないと練習するようになりました。
移籍2年目は、一軍を行ったり来たり。それまでは右打席でのみ打っていましたが、左投手の時には代打で出られるけれど、右投手だと代えられる。どうしたら代えられないようにできるか。左打席で右投手が打てるようになればと、スイッチヒッターに取り組みました。自分が生きていくためには必要だと。
スイッチヒッターになって、1つ気づいたことがあります。例えば右打者の時、右投手の外の真っ直ぐと左投手の外の真っ直ぐは同じではなく、角度が違う。スイッチヒッターは、練習は人の倍やらないといけないが、右打席の右投手のような、自分の体に近いところから来る球がなくなりました。球種が半分になったようなものです。
打つのが一番難しい、体に近いところから遠いところに逃げていく球がなくなった。それに気づいてからは打てるようになりました。プロに入って9年かかって、10年目に136試合フル出場しました。野球選手の平均寿命が8、9年で、自分がそこまで生き残れました。
今、みんなは希望にあふれて「レギュラーを獲って生き残ってやる」と思っているだろうが、必ず壁にぶつかる。そんな時、少し言葉で考えると、僕みたいに生き残れる。ざ折してあきらめるのか、そうでないのか、自分で考えないといけない。
そして34歳の時、トレードでジャイアンツに来ました。広島が若手選手への切り替えを図っていて、僕は出場機会が減りそうだったのですが、子供はまだ小さく、家のローンも残っている。「トレードに出してください」と球団にお願いしたのですが、決まったのが(戦力が充実している)ジャイアンツ。「出番を求めているのに、何でジャイアンツなんだろう」と思いましたが、入団してみると、けが人が続出してチャンスがもらえた。
最後にジャイアンツに入って、3連覇や日本一を経験し、勝つ喜びを知った。今までは自分の事だけを考えていました。プロ野球選手になると自分が成功するために、どうしても自分の事ばかり考えてしまう。しかし勝つ喜びはものすごくて、言葉では言い表せない。みなさんも、自分が活躍して優勝するんだという気持ちを持ってほしい。
自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティープレーヤー」、「何でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない。巨人の藤田宗一投手は、中継ぎ登板だけで自分と同じ歳までやっている。それで飯が食える、それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だった事がうまくいかない。それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか。
(GIANTS ニュース)