さようなら キムタク 2010:04:09:07:25:28
広島でも人気のあった木村拓也コーチは2010年4月2日の広島市民球場での試合前のシートノック中にくも膜下出血で突然倒れました。意識不明の重体が続き、7日午前3時22分に広島市内の病院で帰らぬ人となりました。37歳でした。(ご冥福を祈ります)
2009年に現役を引退し、今季から巨人軍の1軍コーチに就任し、指導者としてこれからの活躍が期待されていました。
3月2日に日本野球機構(NPB)の新人研修で木村コーチが行った講義が話題になりました。
そのきっかけは埼玉西武ライオンズの大物ルーキー菊池雄星投手がマスコミに、木村コーチの講演を聞いて感銘を受け「内容がすごく心に残っている」と語ったことだそうです。これをスポーツ紙が取り上げ、広がっていきました。
巨人軍公式ホームページには「NPB新人研修 木村拓コーチ講義内容」として10年3月4日付けで掲載しました。
長くなりますが、人生を考える「宝のような言葉」が詰まっていると感じましたので巨人軍のホームページから添付させていただきました。
NPB新人研修 木村拓コーチ講義内容(巨人軍のホームページ)
高校時代は4番を打っていて、捕手でした。19年間プロ野球選手をやって、最後は2番・セカンドになった。そのいきさつを話そうと思います。
1990年のドラフトで、僕は指名されませんでした。当時は6位までに指名されなかった選手は、「ドラフト外」で自由競争でした。僕は高校通算で35本塁打打っていて、宮崎県のお山の大将で、ドラフトで自分の名前が出ないでショックでした。ドラフト外で日本ハムに入団する時に、スカウトから「入ったら横一線だから。プロの世界は自分が頑張って結果を残せば、一軍に上がって大変な給料がもらえる」と言われました。でも入ってみるとちょっと違っていた。
新人のみなさんはキャンプを1か月やって、「これならやれるな」と思った人と、「すごい、ついていけないかも」と思った人がいるでしょう。僕はキャンプ初日にシートノックでボール回しをやった時に、「とんでもない所に来た」と思いました。プロのスピードについていけない。ドラフト外というのもなるほどな、これはすぐにやめて田舎に帰らないと、と思いました。
当時、開幕前に60人という支配下登録の枠がありました。僕は登録されなかった。新聞に任意引退選手と出て、故郷から「2か月でやめるのか」と電話がありました。今の育成選手は、二軍の試合に出られるし、シリウスやフューチャーズがある。僕の時には支配下からもれたら、試合に出られず、ひたすら練習。「何しにプロ野球に入ったんだろう」。
今の育成は、野球をやるチャンスがある。どんどんアピールして頑張ってほしい。
2年目に、一軍にけが人が多く出ました。二軍の野手が一軍に呼ばれて、二軍監督から外野を守るよう言われました。試合に使ってもらえるならと外野手をやり、まず第一歩を踏み出しました。そしてファームで1番を打っていた選手が米国に野球留学し、他はけが人も多く「1番がいないから、お前が打て」とコーチに言われ、何て運に恵まれているんだろうと思いました。そして9月、一軍にけが人が多く、初めて一軍に上がりました。結局、2年目は3本ヒットを打ちました。
3年目は開幕一軍でしたが、ほとんどが守備要員でした。1か月ほどで二軍に落ちて、それ以降は一軍に上がらずでした。
3年目のオフに転機がありました。9月末から12月末の4か月間、ハワイのウインターリーグに参加し、イチロー選手といっしょでした。1歳下のイチロー選手に衝撃を受けました。4か月間同じ部屋で、朝起きたらいない。朝からウエートトレーニングをしていたのです。このウインターリーグでイチロー選手は首位打者を獲りました。自分はこんなんじゃだめだなと思い、イチロー選手が僕の野球人生を変えてくれた一人になり、感謝しています。
4年目は、1年間一軍にいましたが、守備要員でした。しかしやっと「野球選手になれたな」と思っていたのですが、広島にトレードになった。正直「何でおれが」と思いました。
広島は当時、野村、江藤、前田、音、緒方、金本の名選手ぞろい……僕に入り込むすきはなかった。移籍1年目は数試合に出て7打数で安打なし。「これはクビになるな」と思い、「どうやったらここで生きていけるか」と考えました。一軍のレギュラーの中では、セカンドが確か34、35歳のベテランだったので、セカンドをやるしかないと練習するようになりました。
移籍2年目は、一軍を行ったり来たり。それまでは右打席でのみ打っていましたが、左投手の時には代打で出られるけれど、右投手だと代えられる。どうしたら代えられないようにできるか。左打席で右投手が打てるようになればと、スイッチヒッターに取り組みました。自分が生きていくためには必要だと。
スイッチヒッターになって、1つ気づいたことがあります。例えば右打者の時、右投手の外の真っ直ぐと左投手の外の真っ直ぐは同じではなく、角度が違う。スイッチヒッターは、練習は人の倍やらないといけないが、右打席の右投手のような、自分の体に近いところから来る球がなくなりました。球種が半分になったようなものです。
打つのが一番難しい、体に近いところから遠いところに逃げていく球がなくなった。それに気づいてからは打てるようになりました。プロに入って9年かかって、10年目に136試合フル出場しました。野球選手の平均寿命が8、9年で、自分がそこまで生き残れました。
今、みんなは希望にあふれて「レギュラーを獲って生き残ってやる」と思っているだろうが、必ず壁にぶつかる。そんな時、少し言葉で考えると、僕みたいに生き残れる。ざ折してあきらめるのか、そうでないのか、自分で考えないといけない。
そして34歳の時、トレードでジャイアンツに来ました。広島が若手選手への切り替えを図っていて、僕は出場機会が減りそうだったのですが、子供はまだ小さく、家のローンも残っている。「トレードに出してください」と球団にお願いしたのですが、決まったのが(戦力が充実している)ジャイアンツ。「出番を求めているのに、何でジャイアンツなんだろう」と思いましたが、入団してみると、けが人が続出してチャンスがもらえた。
最後にジャイアンツに入って、3連覇や日本一を経験し、勝つ喜びを知った。今までは自分の事だけを考えていました。プロ野球選手になると自分が成功するために、どうしても自分の事ばかり考えてしまう。しかし勝つ喜びはものすごくて、言葉では言い表せない。みなさんも、自分が活躍して優勝するんだという気持ちを持ってほしい。
自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティープレーヤー」、「何でも屋」で、それでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない。巨人の藤田宗一投手は、中継ぎ登板だけで自分と同じ歳までやっている。それで飯が食える、それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だった事がうまくいかない。それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に、自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか。
(GIANTS ニュース)
五輪招致問題 レポート(一市民) 2010:04:06:06:39:06
先日、五輪招致問題に対する一市民の方からレポートをいただきました。少し長くなりますが御本人に了解を取りましたので掲載します。
「五輪予算」の否決・再議による復活の経過を見て(市民感覚での感想)
市民が日常的に市政に接する場は限られています。このたびの推移も、もっぱら新聞やテレビといったメディアからの情報により伝えられる範囲で知り得たものであり、したがって感想も、それら間接情報によります。この点を先ずことわっておきます。
今回の予算化の意味について
今回一旦否決され、再議で復活した「五輪予算」は、表面的には、広島が開催都市として立候補するかどうかを判断するための、いわば立候補検討費用ですが、行政の営みとしてとらえれば、「五輪」を支えるために必要となる行政施策がどのように生じ、それが市民のニーズに適合するかどうか、かつ財政面その他からみて実現可能なものかどうか、これらを検証するためという、重いテーマを背負った予算だと思います。
すなわち、今回の五輪予算は、このような「五輪」が一過性のイベントではなく、五輪を契機にした持続的なまちづくりの絵姿を描く中で「政策として成立するかどうか」という厳しい課題に答えを出すための経費ということになります。
たとえば、選手村であれば、「公営住宅の大量供給政策」の必要が生じ、競技施設の充実整備であれば、たとえば「市民の健康増進とスポーツ都市への推進政策」の重点実施が必要となります。
今日の広島市の財政状況や、住宅やスポーツ施設の充足状況を考慮すると、それらの政策化のハードルは非常に高いと思います。立候補検討費用を投ずる段階からその費用を不要として市議会が一旦予算を否決したことは、こうしたハードルの高さを先取りしたものと見ることも可能です。
仮に、選手村や競技施設などを、持続的なまちづくりと切り離し、「仮設」で整備する場合は、それは一過性のイベントの政策となり、市民ニーズとは別次元の予算化の議論となります。
このたび五輪予算が計上されたことで、こうした行政ベースでのきわどい検討と政策論議が本格化することになります。しかも、時間的には余裕がありません。
市民の意識について
予算審議と議決、再議というこの一連の経過と、メディアの報道、論説やメディアが紹介する市民の反応から見えてきたことは、五輪に対する「市民の冷静さ」でした。この冷静さには、二つの背景があると思います。
一つ目は、東京五輪への国民、都民の冷静さの背景とも重なりますが、日本はもう五輪では盛り上がらない時代に入っていることです。五輪という壮大な国家的プロジェクトは、政府と国民が一丸となれる成長発展国の躍動感に支えられるものでしょうが、日本は、すでに成熟国で、さらに財政的に危機的な状況下では、「もっと大事なことを優先してやってほしい」という方向に意識が向きます。五輪を冷めた目で見るのは当然です。
二つ目は、広島特有の歴史です。アジアと世界の違いはありますが、広島はすでに「五輪」を経験しています。この稀な経験から、インフラやスポーツ施設が一挙に整備されるなど「五輪効果」を体感しましたが、一方では、市財政の貯金を使い果たし、大きな債務を負ったことも知っています。さらには、一館一国運動など、さまざまなボランティア的な市民の参加、支援活動のよさも大変さも経験しました。だから、もはや「五輪」が「夢」と直結しにくいと思われます。
メディアが調べ報道した範囲でも、積極的に五輪を期待する声は少数でした。再議の前、議会が予算を否決した直後にある放送会社が行った、市民三百人へのアンケート調査では、議会の否決を支持する声が、支持しない声より多く現れました。
議会の中の意見構成も、「冷静派」が多数のように伝わってきますが、これは市民の冷静さがそのまま投影されていると見えます(代表民主主義制では当然でしょうが)。
これまでの議会否決のシーンは、メディアでは、単なる政治闘争劇として報道される傾向があったように思いますが、今回の報道ぶりは、これまでと違ってきて、正当な議論の展開シーンとして扱われている印象でした。(テレビに登場する議会のキーマンが、政治闘争の垢にまみれた感じの人でなく、清新な感じのする人であったことも大きかったのでは。)
市民意識の相貌を五輪から照射すると、市民は、アジア大会を経験した冷静派(リアリティ派)と、五輪をテコに核廃絶やまちづくりを推進できると感じるロマン派との二層に分かれると思いますが、現在では冷静派が多いように見受けられます。
「平和五輪」と銘打ってはいても、たとえば被団協の坪井会長は、「五輪よりも核廃絶を」と発言されています。これも、冷静さの現れでしょう。
そもそも、五輪は、持続的なまちづくりへの市民ニーズから必然的に出てくる課題ではありません。市民がこぞって意義を認め、そこに知恵とエネルギーを投入しようという、足元に熱気が立ち昇るような盛り上がりが不可欠で、その盛り上がりがエネルギーとなってこそ、世界を巻き込んでいけるのです。いまの市民意識では、到底、その域には届いていませんし、これからその域に引っ張っていくのも大変だと思います。
出発とプロセスについて
ものごとは、その出発点が大事で、出発の仕方がものごとの性格を表すと思います。その意味でみると、広島五輪の出発点は、市長のメディア向け発信でした。「足元」ではなく、「外」(やるとすれば五輪外交が必要となる方面)でした。
以降、新聞記事にいう「市長の独断専行が目立つ」プロセスであったとすれば、それは、五輪イベントの要諦(足元からの盛り上がり)には馴染みません。同時に、一歩ずつ議論を積み重ねる民主主義のプロセスからも逸脱の感がぬぐえませんし、「再議」の手法が用いられて、なおさらその感を強くせざるを得ませんでした。
冷静な政策論議を要するテーマでありながら、再議によって、テーマが一挙に政治化したようです。「五輪」という、市民ニーズからではないところで突発的に打ち出されたテーマが、そもそも再議に馴染むかどうかにも、市民感覚からは疑問が残ります。
「再議」という一般的でない手続きを要請した市長から、市民にその熱意を発信するような場面もないなかで、議会の結論が否決から可決に変わったことには、密室性を感じ、釈然としません。
いずれにしても、民主主義は、結論よりプロセスを大事とします。民主主義のプロセスをおろそかにするようでは、「平和」を訴える資格が問われるでしょう。
今回の一連のプロセスについて
このたびの進行過程から見えてきたことを一言でいうなら、一連の議会進行によって、五輪に関して、市民と市政が噛み合っていないことが露呈した、そういう過程であったと思います。これは、五輪立候補の民主主義的な基盤が出来ていないことを意味します。
もし、今回、議会の予算否決という、市政のチェック機能側からの大いなる問題提起の段階がなかったら、イベントと政策の両立の難しさを市民が実感することも出来なかったし、ロマン(夢)とリアリティ(実現性)の厳しいせめぎあいを意味する五輪の本質に触れることも出来なかったと思います。
また、民主主義とは何かに疑問を投げかけるような進行でもありました。
今回計上された予算をもとに、これから「五輪の政策化の可能性を探るプロセス」が始まります。財政負担などの検証による五輪のリアリティを見極めることも大事ですが、市民と市政が噛み合うことによる足元の盛り上がりと、外部からの協力の盛り上がりとが両輪となって、五輪の民主主義的基盤が形作られるとすれば、そこが、立候補判断の大きなポイントだと思います。