五輪招致問題 レポート(一市民) 2010:04:06:06:39:06
先日、五輪招致問題に対する一市民の方からレポートをいただきました。少し長くなりますが御本人に了解を取りましたので掲載します。
「五輪予算」の否決・再議による復活の経過を見て(市民感覚での感想)
市民が日常的に市政に接する場は限られています。このたびの推移も、もっぱら新聞やテレビといったメディアからの情報により伝えられる範囲で知り得たものであり、したがって感想も、それら間接情報によります。この点を先ずことわっておきます。
今回の予算化の意味について
今回一旦否決され、再議で復活した「五輪予算」は、表面的には、広島が開催都市として立候補するかどうかを判断するための、いわば立候補検討費用ですが、行政の営みとしてとらえれば、「五輪」を支えるために必要となる行政施策がどのように生じ、それが市民のニーズに適合するかどうか、かつ財政面その他からみて実現可能なものかどうか、これらを検証するためという、重いテーマを背負った予算だと思います。
すなわち、今回の五輪予算は、このような「五輪」が一過性のイベントではなく、五輪を契機にした持続的なまちづくりの絵姿を描く中で「政策として成立するかどうか」という厳しい課題に答えを出すための経費ということになります。
たとえば、選手村であれば、「公営住宅の大量供給政策」の必要が生じ、競技施設の充実整備であれば、たとえば「市民の健康増進とスポーツ都市への推進政策」の重点実施が必要となります。
今日の広島市の財政状況や、住宅やスポーツ施設の充足状況を考慮すると、それらの政策化のハードルは非常に高いと思います。立候補検討費用を投ずる段階からその費用を不要として市議会が一旦予算を否決したことは、こうしたハードルの高さを先取りしたものと見ることも可能です。
仮に、選手村や競技施設などを、持続的なまちづくりと切り離し、「仮設」で整備する場合は、それは一過性のイベントの政策となり、市民ニーズとは別次元の予算化の議論となります。
このたび五輪予算が計上されたことで、こうした行政ベースでのきわどい検討と政策論議が本格化することになります。しかも、時間的には余裕がありません。
市民の意識について
予算審議と議決、再議というこの一連の経過と、メディアの報道、論説やメディアが紹介する市民の反応から見えてきたことは、五輪に対する「市民の冷静さ」でした。この冷静さには、二つの背景があると思います。
一つ目は、東京五輪への国民、都民の冷静さの背景とも重なりますが、日本はもう五輪では盛り上がらない時代に入っていることです。五輪という壮大な国家的プロジェクトは、政府と国民が一丸となれる成長発展国の躍動感に支えられるものでしょうが、日本は、すでに成熟国で、さらに財政的に危機的な状況下では、「もっと大事なことを優先してやってほしい」という方向に意識が向きます。五輪を冷めた目で見るのは当然です。
二つ目は、広島特有の歴史です。アジアと世界の違いはありますが、広島はすでに「五輪」を経験しています。この稀な経験から、インフラやスポーツ施設が一挙に整備されるなど「五輪効果」を体感しましたが、一方では、市財政の貯金を使い果たし、大きな債務を負ったことも知っています。さらには、一館一国運動など、さまざまなボランティア的な市民の参加、支援活動のよさも大変さも経験しました。だから、もはや「五輪」が「夢」と直結しにくいと思われます。
メディアが調べ報道した範囲でも、積極的に五輪を期待する声は少数でした。再議の前、議会が予算を否決した直後にある放送会社が行った、市民三百人へのアンケート調査では、議会の否決を支持する声が、支持しない声より多く現れました。
議会の中の意見構成も、「冷静派」が多数のように伝わってきますが、これは市民の冷静さがそのまま投影されていると見えます(代表民主主義制では当然でしょうが)。
これまでの議会否決のシーンは、メディアでは、単なる政治闘争劇として報道される傾向があったように思いますが、今回の報道ぶりは、これまでと違ってきて、正当な議論の展開シーンとして扱われている印象でした。(テレビに登場する議会のキーマンが、政治闘争の垢にまみれた感じの人でなく、清新な感じのする人であったことも大きかったのでは。)
市民意識の相貌を五輪から照射すると、市民は、アジア大会を経験した冷静派(リアリティ派)と、五輪をテコに核廃絶やまちづくりを推進できると感じるロマン派との二層に分かれると思いますが、現在では冷静派が多いように見受けられます。
「平和五輪」と銘打ってはいても、たとえば被団協の坪井会長は、「五輪よりも核廃絶を」と発言されています。これも、冷静さの現れでしょう。
そもそも、五輪は、持続的なまちづくりへの市民ニーズから必然的に出てくる課題ではありません。市民がこぞって意義を認め、そこに知恵とエネルギーを投入しようという、足元に熱気が立ち昇るような盛り上がりが不可欠で、その盛り上がりがエネルギーとなってこそ、世界を巻き込んでいけるのです。いまの市民意識では、到底、その域には届いていませんし、これからその域に引っ張っていくのも大変だと思います。
出発とプロセスについて
ものごとは、その出発点が大事で、出発の仕方がものごとの性格を表すと思います。その意味でみると、広島五輪の出発点は、市長のメディア向け発信でした。「足元」ではなく、「外」(やるとすれば五輪外交が必要となる方面)でした。
以降、新聞記事にいう「市長の独断専行が目立つ」プロセスであったとすれば、それは、五輪イベントの要諦(足元からの盛り上がり)には馴染みません。同時に、一歩ずつ議論を積み重ねる民主主義のプロセスからも逸脱の感がぬぐえませんし、「再議」の手法が用いられて、なおさらその感を強くせざるを得ませんでした。
冷静な政策論議を要するテーマでありながら、再議によって、テーマが一挙に政治化したようです。「五輪」という、市民ニーズからではないところで突発的に打ち出されたテーマが、そもそも再議に馴染むかどうかにも、市民感覚からは疑問が残ります。
「再議」という一般的でない手続きを要請した市長から、市民にその熱意を発信するような場面もないなかで、議会の結論が否決から可決に変わったことには、密室性を感じ、釈然としません。
いずれにしても、民主主義は、結論よりプロセスを大事とします。民主主義のプロセスをおろそかにするようでは、「平和」を訴える資格が問われるでしょう。
今回の一連のプロセスについて
このたびの進行過程から見えてきたことを一言でいうなら、一連の議会進行によって、五輪に関して、市民と市政が噛み合っていないことが露呈した、そういう過程であったと思います。これは、五輪立候補の民主主義的な基盤が出来ていないことを意味します。
もし、今回、議会の予算否決という、市政のチェック機能側からの大いなる問題提起の段階がなかったら、イベントと政策の両立の難しさを市民が実感することも出来なかったし、ロマン(夢)とリアリティ(実現性)の厳しいせめぎあいを意味する五輪の本質に触れることも出来なかったと思います。
また、民主主義とは何かに疑問を投げかけるような進行でもありました。
今回計上された予算をもとに、これから「五輪の政策化の可能性を探るプロセス」が始まります。財政負担などの検証による五輪のリアリティを見極めることも大事ですが、市民と市政が噛み合うことによる足元の盛り上がりと、外部からの協力の盛り上がりとが両輪となって、五輪の民主主義的基盤が形作られるとすれば、そこが、立候補判断の大きなポイントだと思います。
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