エクレールお菓子放浪記 2011:10:26:07:17:06
昨日(10月25日)広島市社会福祉協議会の理事長さんが来られ、広島県上映推進委員会が中心となって「エクレールお菓子放浪記」と言う映画で「東日本大震災の被災地復興支援上映会」を企画したので、そのチケットの販売に来られました。入場料収入の10%を東日本大震災義援金として、日本赤十字社を通じて被災地へ届けけるという事です。
観賞料金 前売券/一般1,000円 当日券/一般1,300円 小中高生800円
上演予定
サロンシネマ(広島市中区鷹ノ橋)10月8日(土)から21日(金)毎日10時30分から 1回上映
佐伯区民文化センター 12月3日(土) 10時30分・13時30分
安佐北福祉センター 12月3日(土) 14時
南区民文化センター 12月9日(金) 10時30分・13時30分
安佐南区民文化センター 12月10日(土) 10時30分・13時30分
広島県民文化センター 12月16日(金) 10時30分・13時30分・18時30分
西区民文化センター 12月17日(土) 10時30分・13時30分・18時30分
東区民文化センター 12月18日(日) 10時30分・13時30分
安芸区民文化センター 2012年1月20日(金) 10時30分・13時30分
安佐北区民文化センター 2012年1月21日(土) 10時30分・13時30分
この映画は、東日本大震災の発生前に石巻市などで撮影され、戦中戦後の東京や東北地方を舞台に、孤児が放浪しながら生きる物語。
震災前日の3月10日、完成披露試写会が東京で行われましたが、震災で撮影場所となった石巻市では10月1日まで上映が延期されました。
主人公が渡し船に乗るシーンは、石巻市の北上川河口に生い茂る美しい葦原で撮影されたものの、津波でほとんどがなくなりました。映画で、主人公は旅回り一座の一員となりますが、主人公が出入りするという設定の芝居小屋として使われた映画館「岡田劇場」も、津波で流され、約400人いたエキストラも、半数近くが被災しました。
あらすじ - エクレール・お菓子放浪記
昭和17年。孤児院を脱走した西村アキオ(吉井一肇)は、金平糖を盗み逮捕される。空腹のアキオに、担当刑事の遠山(遠藤憲一)が菓子パンをくれた。初めて口にする甘味はアキオを夢心地にさせるのだった。やがて若松千吉(太賀)、松尾春彦(根岸泰樹)と共に感化院に入れられたアキオは、指導員・伊集院鉄太郎(松村良太)から暴力的な軍事教育を受ける。希望のない日々を救ってくれたのは、教員・陽子(早織)が歌う「お菓子と娘」だった。昭和18年。野田フサノ(いしだあゆみ)の養子になったアキオは家族ができたと大喜び。だが、フサノにとってアキオは労働力でしかなかった。ショックを受けたアキオは家出し、尾上紋三郎(林隆三)率いる旅一座と共に巡業に出る。ようやく居場所を見つけたアキオだったが、戦争という現実が旅一座をも打ち壊してしまう。更に、陽子や遠山までもが空襲で亡くなったと知った時、アキオは戦争の残酷さを痛感し、世の中に絶望するのだった。そして、終戦。大切にしていた沢山の人の死と巡り会ったアキオは、心を閉ざして社会の片隅で生きていた。そんなアキオを救ったのは、彼を支えた“やさしい人の心”と“お菓子の持っている不思議な力”だった……。
中国安徽省合肥市で開かれた中国の金鶏百花映画祭で21日、宮城県石巻市で撮影された映画「エクレール・お菓子放浪記」に主演した吉井一肇君(12)が外国映画部門の最優秀男優賞を受賞した。新華社電は受賞理由を伝えていないが、韓国の男性俳優との同時受賞で、子役の受賞は初めてという。
文化講演会並びに政経文化懇談会 2011:10:23:07:14:18
昨日(10月22日)10時30分より自由民主党広島県支部連合会主催の「文化講演会並びに政経文化懇談会」がANAクラウンプラザホテル広島で開催されました。
参加者は主催者発表で約1,000人でした。
来賓・県選出国会議員並びに各地区支部長
瀬戸内ハイツ自治会秋祭り
瀬戸内ハイツ自治会創立35周年を記念しての秋祭りの前夜祭が開催されました。瀬戸内第2公園で神楽が上演されました。
山根神楽団(安芸高田市高宮町川根山根)
歴史は大変古くその始まりは約220年前に遡る。
当時の山根地区の住人数人が隣村の阿須那(島根県邑智郡邑南町阿須那)の賀茂神社神官、斉藤氏に習いに出向き、持ち帰ったとされる。
それ以後、徐々に人数も増え練習を重ね戦前は大変隆盛を誇り年間60回程度招かれた記録があり、その当時は大八車に衣装等一式を積み神社から神社へと帰宅せずに夜を徹して舞い歩くこともしばしばあったようである。
高宮町内では、いち早く演目「剣舞」が昭和29年に広島県無形文化財の指定を受けた。
戦時中は団員の徴兵や道具(刀剣類)の没収などで一時期途絶えかけていたが、戦後すぐに復活した。
とはいえ多くの農村がそうであったように山根地区も時代の流れに背くことができず、若者の多くは仕事を求めて都会へ行き、山根には年老いた人たちが目立つようになり神楽も衰退しかけない状態だった。
「これではいかん」と山根地区出身で広島市内に在住していた有志数人が立ち上がり広島市を拠点に神楽を始めたのは、30年前だった。噂を聞きつけたものや誘われたものなどが集い今では約20名で活動している。
昭和60年には、ハワイ公演も行った。近年では神楽団の増加や新しい神楽(新舞)の人気、競演神楽の人気などに押されて上演回数は減少したものの年間15回程度、各地の祭り、イベントに招かれ披露している
「競演大会で優劣を競うよりも祭りの奉納神楽」という姿勢をかたくなに守り続け、昔からの山根神楽の伝統ある芸に磨きをかけ「古い神楽の伝承」という目標の基に日々精進している。
(山根神楽団ホームページ引用)