広島市北部時間外診療所(仮称) 2009:09:03:06:24:06
昨日(9月2日)安佐医師会から「第3回広島市北部時間外診療所(仮称)設置に係わる進捗状況について」に説明会が広島アンデルセンで19時より開催されました。
広島市北部時間外診療所(仮称)については、平成18年12月広島市長に請願及び要望書を提出し、広島市議会にも請願し、平成18年12月18日厚生委員会で採択され、平成18年12月19日本会議で採択されています。
これまで安佐医師会では平成18年6月より安佐地区時間外診療体制整備委員会を立ち上げ、広島市北部の休日、夜間診療体制について検討を始めていました。まず、住民の意識調査「安佐南区・安佐北区住民の休日・夜間診療についての意識調査」を実施されました。
1、1歳前後の乳幼児の保護者
2、保育所・幼稚園の保護者
3、大学生
4、40歳から50歳代の会社・事務所の勤務者
5、高齢者
以上5グループそれぞれ100人、合計1,000人のアンケートを取られました。その結果市民の7割以上がかかりつけ医(病院)の診療を望んでいると言う結果が出ました。それを受けて広島市・広島市議会に「安佐地区(安佐南区・安佐北区)時間外診療所開設に伴う請願者」を提出され上記の採択がされていました。
請願内容
1、施設の名称は、広島市北部準夜救急センター(仮称)又は、安佐医師会時間外急患センター(仮称)とする。
2、設置場所は、社団法人 安佐医師会の敷地の一部を提供する
(安佐南区八木5丁目35?2 9,775?)
3、診療科 内科系・小児科系
4、」診療日及び診療時間 365日 準夜帯7時から11時PM
5、建物の管理、医師・看護師及び事務職員等の確保、診療所の運営等は社団法人安佐医師会が 広島市の委託により運営する。
以上でした。現在まで色々と3年間にわたり安佐医師会内部で(医師の確保・診療科目等)検討をされてきました。今回結論が出されました。
(1)基本構想
1、施設名称 広島市北部時間外診療所(仮称)
2、設置場所 安佐北区可部地区(安佐医師会間から変更)
(現在使われていない空診療所)
3、運営方式 公設民営方式で整備・開設し、安佐医師会の運営事業として行なう
4、診療体制 当面は内科1診体制(15歳以下の患者は受け入れない)
(従来の小児科診療については、小児科医の数が足りない)
(安佐医師会21名・広島県81名)
5、診療日時 平日の月曜日から金曜日の準夜帯(土曜日・日曜日・祝日・年末年始は除く)
6、診療時間 19時30分から23時00分
7、医師出務費 42,000円
交通費 5,000円
看護師他の手当
(広島市医師会千田町夜間急病センターと同額)
8、診療人員 医師1名、看護師2名・薬剤師1名・事務職員1名・警備員1名
(2)運営その他
1、運営に係わる人員確保
・医師 安佐医師会会員が出務
・看護師 安佐医師会で雇用
・薬剤師 安佐医師会から安佐薬剤師会に協力要請
・事務員等 派遣契約社員等により対応
2、診療について
・対応困難な場合は、後方病院に転送
・処方は原則1日分とする
但し、診療日以外は、かかりつけ医が診療する日までの期間の処方日数
・救急車による患者は、診察しない
3、運営資金等
・診療報酬及び広島市からの補助金を持って充てる。
(広島市医師会千田夜間救急センターに準じた扱い)
以上の経過説明がありました
安佐医師会の沿革
明治 9年(1876)有志医会
明治12年(1879)奨進医会(改称)
明治16年(1883)高宮郡、沼田郡の「開業医組合」設立
明治21年(1888)沼高医会(改称)
明治25年(1892)第1回広島県医会に参加
明治31年(1898)安佐郡医会(改称)
明治31年(1898)芸備医学会祇園分会発足
明治40年(1907)安佐郡医師会(改称)
明治43年(1910)安佐郡産婆養成所開校
明治43年(1910)安佐郡医学研究会発足
大正15年の医師会
昭和3年頃の医師会
昭和48年(1973)安佐医師会(改称)
昭和55年(1980)安佐准看護学院開校
昭和58年(1983)第一回安佐医学会
9月1日 2009:09:02:07:18:18
昨日(9月1日)から9月です。8月はあっという間に終わりました。今年は夏があったかな?蒸し暑い日はありましたが、夏らしい日はあまり無かったような気がします。
昨日9月1日
・防災の日(日本)
1923年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災を忘れることなく災害に備えようと、1960年に制定。
・二百十日(にひゃくとおか:日本、2002年・2003年・2004年)
立春から数えて210日目の日。台風襲来の時期であるため、農家にとっての厄日である。
・おわら風の盆(富山県富山市八尾地区、9月3日まで)
「おわら風の盆」富山で始まる 北陸路に秋の訪れ(日経ネット)
北陸路に秋の訪れを告げる「おわら風の盆」が1日、富山市で始まり、編みがさをかぶった男女の踊り手が街並みを流し歩く様子に観光客らが見入った。
立春から二百十日目の「風の厄日」に、田畑を荒らす風を鎮め、災害を防いで五穀豊穣(ほうじょう)を願う伝統行事。3日までの3日間、夜を通して踊り明かす。
哀調を帯びた胡弓(こきゅう)や三味線の音色が響く「おわら風の盆」、10何年か前、妻と行きました。思い出されます。夏の終わりの何か忘れたような、何か寂しい雰囲気を思い出します。もう一度ゆっくり行きたいと思っています。
●「風の盆」とは
暴風を吹かせて農作物に災厄をもたらす悪霊を、「二百十日」に歌や踊りで鎮める行事というのが通説のようです。けれども、八尾町は、養蚕や紙などの交易で栄えた町で、農作物に依存する割合は大きくありませんでした。
二百十日の風害の厄を除き、豊作を願うというのは、風俗壊乱・安眠妨害だとして警察から差し止められていた経緯もあるのではないでしょうか。
古くは「回り盆」と言っていたようです。歌や踊りで町を練り回るからです。
「回り盆」といい、「風の盆」といい、「盆」という言葉を含んでいるのは、「盂蘭盆」(うらぼん)との関係があるからだと考えさせます。
太陰暦の「盂蘭盆」は、太陽暦では8月7日から9月6日の間になります。
「二百十日」は立春から数えて二百十日目で、太陽暦では9月1日(希に8月31日)になり、「盂蘭盆」と「二百十日」は時期的に重なります。
また、「盂蘭盆」から続く魂祭の最後の行事が「風の盆」、という考えもあります。
現在の「おわら風の盆」は、日本古来の祖先信仰の「魂祭」、中国の『盂蘭盆経』の「盂蘭盆会」、豊作祈願の「習俗」、それらが結合したものだと思います。
若衆や娘たちの踊りが不文律のようになっているのも、地域共同体の宗教行事であった名残のように思います。
(インターネット参照)