志士なき幕末 2011:06:21:06:53:25

2011年6月21日

 6月19日(日曜日)に、地域行事の後で、友人のやっている喫茶店に寄りコーヒーを飲みました。その時、「日本経済新聞」の【風見鶏】という候の記事を読みました。大変興味深い記事でした。共感も持てました。

 民主党政権が政権交代を果たした時、明治維新の次の変革だと自称していました。しかし、現在の為体(ていたらく)は、目を覆いたくなるような状況です。(国の政治全てがかなー?)その事を適格に言い表していました。その記事を添付します。

風見鶏

「志士かぶれ」は要らない 【日経新聞朝刊】 2011年06月20日(編集委員 秋田浩之)

 どうしてだろう。政治家に「尊敬する人物」をたずねると、たいてい、人気者は坂本竜馬だ。たとえば野田佳彦財務相も、自身のホームページで「竜馬」の名を記している。

 それでは月並みすぎると思うのか、なかには高杉晋作や大久保利通といった名をあげる人もいる。前者は菅直人首相、後者は民主党の小沢一郎元代表だ。いずれにしても、多くの政治家は東西を奔走し、明治維新の扉をひらいた幕末の志士たちに自分の姿を重ねたがる。

 だが、多くがあこがれるのは司馬遼太郎の小説で描かれるヒーローとしての志士であり、国づくりの途上で非業の死を遂げた生き様ではないように思える。

 菅政権の方針を決める閣僚や民主党幹部の会議の内幕を聞くと、志士とはほど遠い姿があらわになる。

 皆がもっともらしい「正論」を吐く。だが、反対者と刺し違えてでも、自分が信じる政策を押し通そうという傑物はいない。会議は踊るが、結局、何も決まらない――。複数の出席者によると、国難に際してもなお、誰もリスクをとろうとしない学級会のような光景がよく見られるという。

 いま、本当に必要なのは「志士かぶれ」の政治家ではない。正しいと思う政策や筋を通すためなら、孤立し、政治生命を落とすことも恐れない本物の志士だ。

 「みんな世論調査を気にして、テレビカメラの前ではもっともらしい主張をぶつ。だが、それを実現するために裏方に回り、泥をかぶってでも党内や野党の説得に当たる民主党議員はほとんどいない」

 震災の対応に当たる政務三役の一人はこう反省する。ここまで政権を攻撃しておきながら、離党する気概がない同党の反執行部系の人たちも何をかいわんや、だ。

 政権交代を果たしたとき、民主党は明治維新に次ぐ変革だと自賛した。自分も一瞬、そうかもしれないと思いかけた。鳩山前政権が迷走を始めたときも、明治維新から廃藩置県まで4年かかったのだから長い目でみよう、と努めてみた。

 しかし、いまはこう断言できる。あれは決して維新などではなかった。むしろ、徳川幕府がたおれる前の断末魔の始まりのようなできごとだった、と。

 民主党は自民党という幕府体制を変えると言いながら、何も新しいものを築けていない。すでに、自民党時代に壊れかけていた幕府をお粗末に運営しているようにみえる。

 約260年にわたった徳川幕府が滅びる直前にも、日本はかつてない天災や国難に見舞われた。1850年代半ば、ペリーが率いる黒船がやってきて開国を迫られたかと思えば、東海や南海、江戸を次々と大地震が襲った。

 往左往する徳川幕府から民心は離れ、58年には「安政の大獄」という大政局が起きた。維新の約10年前はこんな世の中だった。

 多くの評論や歴史小説を著し、小渕政権で閣僚も務めた堺屋太一氏はどうみているか、聞いてみた。

 「民主党政権は、江戸幕府の最後の将軍となった徳川慶喜のようなものだ。紀伊徳川家に代わって、水戸家から将軍位についた慶喜は財政改革や大阪遷都など、色々な改革を唱えながら、ことごとく失敗した。民主党も政権を代えただけで旧体制を変革できず、日本をぼろぼろにしている」

 それでも幕末には透徹した志から名や命を捨て、時代の歯車を回した英傑が現れた。いまの混迷から、そんな政治家が生まれるのか。だめならば、日本は「志士なき幕末」という悲劇に突き進むことになる。
                      (日本経済新聞記事引用)



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