銅蟲 2011:03:18:07:19:46
4月にある市長選挙に立候補予定者である「松井一実」氏のお父さんは「銅蟲」の職人さんだったそうです。その銅蟲について調べてみました。
<広島県指定伝統的工芸品>
●沿革・特徴
江戸時代の初め広島藩主浅野公に仕えた銅細工師の佐々木伝兵衛が仕事熱心なあまり,「銅の蟲(むし)」と呼ばれたことに由来する。
銅板を槌(つち)で叩いて整形し,表面に「ツチ目」模様を施し,わらで燻(いぶ)して磨き上げたもので,時代を経るほどに,一層深い色としぶい光沢を帯びてくる。
●原材料
銅合金
●主な製品
花瓶,飾皿,茶道具,文具
広島アキハバラ塾 塾長ブログ引用
広島市では広島の伝統工芸の「銅蟲」を復活させるべく委員会を行っています。
この「銅蟲」は銅の板を鎚起(金槌で叩いて成型する技法)と同じだが仕上げに特徴がある。表面に彫刻や飾りを施し藁の煙でいぶし
ヤニを表面に付着させるのである、このヤニを今度は油脂によって鎚目が現れるように磨き上げる。金槌で叩いた跡の鎚目が磨くことにより浮き上がり文様を描き出す。
この技法は1619年に紀伊の浅野が広島に来たときに佐々木伝兵衛という細工師が伝えたものです
この佐々木伝兵衛の墓はこう記されています
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西地方町(にしじかたちょう)江戸期から昭和40年の町名で、地方とは町方に対する耕地のことで、東にある台屋町、または中島地方に対して西に位置することから西地方町と呼ばれたのか。「此所舟入村に隣れる故沖手に対しての名ならんか」と知新集にある。 また、町割り時に畳屋が多く住んだことから畳屋町とも称した(知新集)。地内の曹洞宗養徳院は普門寺末寺。浄土宗浄国寺は京都知恩院末寺で、福島氏時代に高田郡吉田より移転した。寺内には、天明・寛政年間に宮島杓子を創案した僧誓真、浅野氏入国に随従した銅虫細工師佐々木伝兵衛の墓がある(続々がんす横丁)。文化元年に本川対岸との間に本川渡しが開始された。
明治6年に本川渡しの地に新大橋が架橋されたが、戦後流失した新大橋の北側に西平和大橋が架橋された。明治期頃までは西本川と呼ばれ西土手町の本川沿いは本川水運で繁盛した。 明治末期には東検番が設けられ、小網町まで歓楽街を形成した。昭和40年に土橋町・河原町となる
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