正岡子規 2010:12:13:07:11:31

2010年12月13日

 昨日は何か月ぶりかの昼間の行事のない日でした。待っていたかのように妻から柿木の剪定を頼まれました。10時頃から始めて昼までかかりました。結構、腕の筋肉を使います。腕の筋肉の持久性の落ちているのに気が付きました。腕がだるくなり続けて作業が出来にくい状況が再々起こり、休み休み行いました。年を取ったなーと悲哀を感じました。明日、いやいや明後日が筋肉痛でしょうね。

 また、「坂の上の雲」が始まりました。秋山真之の友人として正岡子規がよく出てきます。子規というペンネームは肺結核で吐血して以来使っています。子規とはホトトギスのことで、血を吐くまでさえずる鳥ホトトギスになぞらえたものだそうです。日本一ペンネームの多い人物が正岡子規といわれています。

正岡 子規(慶応3年9月17日(1867年10月14日) - 明治35年(1902年)9月19日)
 俳人・歌人・国語学研究家である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
 俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人である。死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。

 子規の本名はというと正岡常規。墓碑銘には「處之助」「升」「子規」「獺祭書屋主人」「竹ノ里人」が登場します。「處之助」は幼名。学校へ行く年になって「トコロテン」とからかわれてはいけない、と外祖父の大原観山が子規4・5歳のとき、易の地風から「升」と改めました。これ以降、友人や母から「のぼさん」と親しみを込めて呼ばれています。

「子規」は明治22年、喀血した時より「啼いて血を吐くほととぎす」に使われています。明治11年、12歳の折り、初めて作った漢詩が「聞子規」というのも因縁めいています。
 
 「獺祭書屋主人」はかわうそ(獺祭)が捕った魚を並べる習性より、本をあたりに並べ散らかす様を号したもの。
 
 「竹ノ里人」は東京の住まいを呉竹の根岸と称し、そこで暮らしていたことからつけたものです。
 
 子規は雅号だけでも百あまり持っています。「筆まかせ」雅号の章には中の川の子規邸にあった桜の木から「老桜」と号したのが十歳ごろ。山内伝蔵より「中水」をもらったがあまり気に入りませんでした。十五・六歳の時、大原観山より桜の形容として「香雲」という号に変えています。
 
 「筆まかせ」に登場する雅号は他に「走兎」「風廉」「漱石」「士清」「子升」「常規凡夫」「眞棹家」「丈鬼」「冷笑居士」「獺祭魚夫」「放浪子」「秋風落日舎主人」「癡夢情史」「野暮流」「盗花」「四国仙人」「沐猴冠者」「被襟生」「莞爾生」「浮世夢之助」「蕪翠」「有耶無耶漫士」「迂歌連達磨」「情鬼凡夫」「馬骨生」「野球」「色身情仏」「都子規」「虚無僧」「饕餐居士」「僚凡狂士」「青孝亭丈其」「裏棚舎夕顔」「薄紫」「蒲柳病夫」「病鶴痩士」「無縁癡仏」「情魔癡仏」「舎蚊無二仏」「癡肉団子」「仙台萩之丞」「無何有洲主人」「八釜四九」「面読斎」「一橋外史」「猿楽坊主」。他には「桜亭仙人」「緩寛人」「於怒戯書生」「無茶苦茶散人」「四国猿」「弄球」「能球」など。
 
 子規の雅号の中に「漱石」があり、「筆まかせ」には「漱石は今友人の假名と変ぜり」とあります。また、ベースボールを「野球」と命名したのが子規と言われているのは「升(のぼる)」をもじって「野球(のぼーる)」としたからなのです。

 「名前/無用の雑学知識」(ワニ文庫)によると、名前の記録保持者は滝沢馬琴。戒名も加えて35というペンネームということで名前の横綱に挙げられていますが、正岡子規が日本一多いペンネームの持ち主と言えそうです。

参考資料/「筆まかせ」正岡子規著 改造社(子規全集)「子規の素顔」和田茂樹著 えひめブックス

               (インターネット 松山の謎・天の巻 参照)



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