わっしょい 2010:11:04:07:26:58

2010年11月 4日

 昨日、岡崎神社で神輿担ぎがありました。各町内会から沢山の神輿が出され大変な賑わいとなりました。大きな声で「わっしょい、わっしょい」と掛け声をかけて盛り上がりました。
「わっしょい」と言う言葉は何かと疑問になりましたので調べてみました。

 「わっしょい」の語源は諸説ありました。「和上同慶」「和を背負う」「和と一緒」「輪を背負う」などがもとだそうです。また、言葉には言霊が宿っていると唱える学者の意見が面白かったので掲載します。

言霊(ことだま)
  一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。その法則についての学問を言霊学という。
      (フリー百科事典ウディベキア引用)

 言霊について菅田正昭氏・坂口光男氏の資料等、他、言霊関係を掲載している文章をインターネットで見つけました。

 言霊という聞きなれない字句を国語辞典で探せば、「古代人がその使い方によって人間の禍福を左右すると信じていた、言葉のもつ不思議な力」と記してある。あるいは、言霊学者・国文学者の論を借りれば、大体次のように定義される。

 万葉集の歌に、「言霊」とか「事霊」という言葉が使われているが、これは、万葉人が言葉に精霊がヤドルと考えていたことを示すものであろう。(日本人の言霊思想=豊田国夫・講談社)
古代日本人は、言葉に内在するこの言葉精霊が、その霊妙な力によって人の幸不幸をも左右すると考えていた。そして、このような言霊思想のもつ呪力信仰は、さまざまな習俗となって伝承されている。(前出=豊田国夫)

ワッショイの言霊
 ここでもう一度言霊の原点にかえり、無知なる人々に参考程度の警鐘をお知らせいたします。それは、季節を問わず日本のどこかで見られる祭りに関することです。
  その祭りに定番なのが、神輿かつぎです。そして、昔から人々が力を合わせる掛け声はワッショイと相場が決まっておりました。

 江戸の祭りを含め日本中の神輿かつぎの掛け声がワッショイであったにもかかわらず、昨今は、ワッショイに代わって、何故か「セイヤ、セイヤ」「スイヤ、スイヤ」。または「ソイヤ、ソイヤ」「オリャ、オリャ」「ドッコイ、ドッコイ」などが蔓延しています。これは、一体どういうことなのでしょうか。残念なことですが、今や、神田祭をはじめとする東京中の祭りは、セイヤとかソイヤの掛け声に占領され、ワッショイを耳にするのは絶望的です。

 いずれにしても、ワッショイ以外の掛け声は言霊でもなければ、ことばとしての掛け声でもないのです。神輿の掛け声の変化は、実はかつぎ方の堕落と、日本の産業変化によって生じています。

 さて、本題に入りますが、ワッショイは神輿かつぎの掛け声ではなく、ワッショイの「ワ」は、古代語の親しみと和(なご)むを意味する言霊です。また、自分を自称する「わ=吾」を意味し、感動を表す「わ」、歓声の「ワー」でもあります。大きな物を複数の人がいっしょになってかついで、それを他の場所に移動するとき必ずワッショイの声を出しますが(大木を移動させたり、石を動かしたり)、このときの情況は言うまでもなく、ワ(自分)の複数の団結でワ(感動)が生じてワ(歓声)になり、そして和みのワになるわけです。これらの意味を知らず、セイヤの神輿かつぎをすることは極めて低劣でしかありません。

 また、何よりもワとは、五十音の最後の行である「ワ」を象徴した重要な言霊であることです。ワの言霊には、世界の平安を祈念するための意味がこめられています。そのワを背負う(ショウ=ショイ→引き受ける)は、「ア行からはじまった万世がラ行を無事はたし、最後のワの世界を成就せんと神が願う気持ちを、人も共有する」の意味が隠されています。そのための方便として、祭りではみんなが和やかな気持ちをもって掛け声を出し合います。当然ながら、セイヤとかソイヤ、スイヤではまったく用を足さないばかりか、神の経綸に具現された言霊を無視し、下劣な掛け声をこのまま続けているかぎり、当事者達の頭上には必ず100%の不運が訪れるでしょう(どんな形であろうと)。ましてや神輿の上に人が乗るなどとはとんだ無礼になります。(神輿の形自体には異論がありますが)。

 「ワ」は日本と世界が待ち望む言霊です。しかし、今はまだラ行の時代で、ワは遠い先の事となるでしょう。わたしたちは、いつかその日を迎える事を願って、祭りでワッショイの掛け声を復活させ、それを皆で讃える事が急務となります。

   (インターネット「言霊の世界」・言霊研究家の坂口光男氏の解説引用)



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