歌舞伎座 2010:05:04:07:31:15

2010年5月 4日

 4月末で歌舞伎座が建て替えのため閉場しました。歌舞伎については奥が深いので簡単には調べられませんが、簡単な成り立ちと歌舞伎座の歴史を調べてみました。
 歌舞伎(かぶき)は、日本独特の演劇で、伝統芸能の一つである。重要無形文化財(1965年4月20日指定)です。
 歌舞伎の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代のおわり頃から江戸時代のはじめ初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることをさした語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
 この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。 寛永年間(1624年-1643年)に遊女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字にかわって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。
 これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。       

          (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用)

歌舞伎座の歴史
 
 初代(第一期)の歌舞伎座は、演劇改良運動に熱心だった福地源一郎が中心となって、自らの理想を実現すべく、1889年(明治22年)11月21日に開場しました。外観は洋風でしたが、内部は日本風の檜づくりでした。
 演劇のジャンルをそのまま劇場の名称としましたが、当時は市村座・新富座などのように座元の名前や地名をつけるのが普通でしたので、歌舞伎座はその存在自体が大変斬新な劇場だったのです。また、この頃は「團菊左」と呼ばれた九世團十郎・五世菊五郎・初世左團次が揃って出演し、常に劇界をリードしていました。

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 1911年(明治44年)に、純日本式の宮殿風に大改築され、第二期歌舞伎座が誕生します。
 1914年(大正3年)からは松竹合名社(現在の松竹株式会社)が興行の一切を受け持つようになりますが、1921年(大正10年)10月、漏電により焼失します。

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 新しい劇場を建設途中の1923年(大正12年)9月1日、関東大震災に遭い、工事が一時中断しましたが、3年の空白を置いて、1924年(大正13年)12月、奈良朝に桃山様式を併せた大殿堂、第三期歌舞伎座が落成しました。
 そして、時代は昭和へ。歌舞伎座は黄金時代を迎えます。十五世羽左衛門・六世菊五郎・初世吉右衛門などの名優が活躍し、日本を代表する劇場としての地位を揺るぎないものにしました。
 しかし、戦時下の1945年(昭和20年)5月の大空襲により、外郭を残して焼失します。

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 空襲により劇場の大部分が失われましたが、戦後、破壊を免れた基礎・側壁・屋根の一部を活用し、修理工事を行いました。物資の乏しい時期でしたが、第四期歌舞伎座は、第三期のデザインを再現しながら、近代的な設備を取り入れ、1951年(昭和26年)1月に再建されました。
 戦後復興の時代、社会の価値観が大きく変化する中で、歌舞伎にとって大変厳しい時代を迎えますが、その間も、歌舞伎座は数多くの名舞台を送り出してきました。その後、襲名披露興行や海外公演などの評価により苦しい時代を乗り越えた歌舞伎は、今日の隆盛を迎えます。

歌舞伎座4.jpg 

 長年、銀座のランドマークとして親しまれてきた第四期歌舞伎座ですが、2010年(平成22年)4月の興行をもって、建替えのため休館しました。4月30日閉場式を行ないました。新しい第五期歌舞伎座は、2013年(平成25年)春、開場の予定です。
                     (松竹株式会社 歌舞伎座の歴史)引用 



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